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矢田喜美雄が南極観測隊に参加しない理由のネタバレ

朝日新聞の記者・矢田喜美雄(やだ・みきお)が南極大陸へ行けない「南極物語」のあらすじとネタバレの「矢田喜美雄が南極観測隊に参加できなかった理由のネタバレ」編です。


このページは「南極観測船『宗谷』と随伴船『海鷹丸』が出発」からの続きです。南極物語のトップページは「南極物語のあらすじとネタバレ」です。

南極観測船「宗谷(そうや)」が東京都にある晴海埠頭を離岸するとき、一人の男が港から宗谷を見送っていた。その男は、朝日新聞の記者・矢田喜美雄だった。

南極観測事業は国家事業だが、元を正せば朝日新聞の記者・矢田喜美雄が発案した南極学術探検である。矢田喜美雄が居なければ南極観測事業は存在していなかったと言っても過言ではない。

最大の功労者である矢田喜美雄が港から宗谷を見送ることになったのには、理由があった。その理由は、第1次南極観測隊の隊長・永田武との対立だった。

矢田喜美雄は、早稲田大学4年生の時にベルリンオリンピックに参加し、走り高跳びで5位に入賞している強者で、早生大学の山岳部とともに、南極観測事業の設営部門を主導していた。

ところが、1956年(昭和31年)1月に北海道・濤沸湖(とうふつこ)で行った耐寒設営訓練で、矢田喜美雄は永田武の反感を買い、南極観測隊に分裂の危機が訪れた。

矢田喜美雄は南極観測を成功させるために、永田武は絶対に必要な存在だと考え、南極観測事業から身を引いた。そして、その後は、早稲田大学山岳部に変わり、東京大学スキー部が設営部門を主導していったのである。

第1次南極観測隊の隊長になった東京大学助教授の永田武は、天才肌で強いリーダーシップを発揮し、プライドも高かった。

永田武は地球磁気の研究でノーベル賞候補にも名前が挙った程の、生粋の学者肌だった。手順や論理を重んじる学者は、動物的に臨機応援に動く探検家とは肌が合わない。

学者派の隊長・永田武は、探険家の副隊長・西堀栄三郎ともそりが合わなかった。

永田武はお役所的な考え方で、兎にも角にも手順を踏み、「準備が十分に整い、越冬出来ると判断すれば、越冬する」という考え方だった。それで、当初は第1次南極観測隊が越冬する予定はなかった。

一方、西堀栄三郎は「まず、やってみる」というタイプで、西堀栄三郎の提案により、第1次越冬隊が南極で越冬してみることになった。

第1次越冬隊はモルモット的な役割だったので、西堀栄三郎は、どんな極地でも生きていける屈強な登山家出身のメンバーを中心に越冬隊を編成することになる。

永田武と西堀栄三郎との軋轢は有名で、2人の仲の悪さは、後に「N-Nカップリング」と評されているほどだった。

南極観測事業は国民が1つになった事業だが、南極観測隊は1枚岩ではなかったのである。「南極大陸は寒いが赤道は暑い」へ続く。

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