スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


西山太吉と蓮見喜久子のあらすじとネタバレ

TBSドラマ「運命の人」のモデルとなる実話「外務省機密漏洩事件(西山事件)」のあらすじとネタバレの中編です。


このページは「外務省機密漏洩事件(西山事件)のあらすじとネタバレ」からの続きです。

1972年(昭和47年)3月27日午後2時ごろ、西山太吉は部下を通じて、社会党の横路孝弘に外務省の極秘電信文を渡す。

西山太吉の部下は、横路孝弘の同級生だった。以前から与党を攻撃する材料を探していた横路孝弘が、西山太吉の記事に目をつけ、同級生に頼んだとされている。

1972年(昭和47年)3月27日、アメリカとの沖縄密約を追求していた社会党の横路孝弘と楢崎弥之助の2人が国会で、西山太吉より譲り受けた外務省機密文書のコピーを提示して、沖縄密約について政府与党を追求した。

横路孝弘が提示したのは、外相・愛知揆一が在米大使・牛場信彦に宛てた1971年5月2日付けの極秘文書で、アメリカが支払うべき米軍基地の原状回復費用を日本が支払うことを裏付ける内容であった。

しかし、佐藤総理の方が1枚上手だった。横路孝弘の追求は、佐藤総理に交わされ、不発に終わる。

さらに、横路孝弘が国会で提示した外務省機密文書のコピーは、安川壮外務審議官より上の受領印が無かったため、機密文書を漏洩できる者が限定された。

(後に、横路孝弘はニュースソースを秘匿する措置を取らなかった点について、「佐藤内閣が倒れるという判断があった。内閣が交代すれば、刑事事件になる問題ではなかった」とコメントしている。)

1972年3月28日の朝刊が外務省の機密文書を報じる。毎日新聞の上田政治部長は、西山太吉に、社会党の横路孝弘との関係について尋ねる。このとき、西山太吉は横路孝弘に外務省機密文書のコピーを渡したことを否定した。

1972年3月29日、西山太吉は毎日新聞の上田政治部長に、同僚記者を介して横路孝弘に機密文章のコピーを渡したことを告白する。しかし、西山太吉は蓮見喜久子との特別な関係については否定した。

1972年3月30日、西山太吉が機密文書の漏洩に関与していることは、毎日新聞の上層部しかしらず、毎日新聞は朝刊に「情報提供者は潔く名乗り出ることが望ましい」などと書いたコラムを掲載する。

一方、外務省では機密文書の漏洩元の調査が始まっており、女性事務官・蓮見喜久子は3月30日、西山太吉に機密文書を漏洩したことを、安川壮外務審議官に告白し、辞表を提出した。

1972年4月3日、外務省が蓮見喜久子を刑事告発する。蓮見喜久子は電話で西山太吉に出頭することをを告げ、4月4日未明に警察へ出頭する。

1972年4月4日、朝日新聞が女性事務官・蓮見喜久子の出頭を報じる。毎日新聞の上層部が弁護士を交えて対応を話し合う。この時も、西山太吉は蓮見喜久子との特別な関係を否定する。そして、同日の昼、西山太吉が警察へ任意出頭する。

同日夕方、警視庁捜査2課は、蓮見喜久子を国会公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕し、西山太吉を国会公務員法111条(そそのかし)違反で逮捕する。

一方、妻の西山啓子は、西山太吉が逮捕されたという知らせを受け、自宅にある証拠の書類を台所で燃やそうとする。しかし、火に驚き、台所での焼却を中止。妹の自宅で書類を焼却し、証拠を隠滅した。

1972年4月4日、毎日新聞は朝刊で、中谷不二男編集局長の署名入り記事「国民の知る権利はどうなる、正当な取材活動、権力介入は言論への挑戦」などを掲載する。

1972年4月5日、毎日新聞の中谷不二男編集長は警視総監に不当逮捕を抗議して、西山太吉の釈放を求めた。

一方、マスコミ共闘会議なども立ち上がり、マスコミ各社は「知る権利キャンペーン」を展開した。

1972年4月6日、総理大臣の佐藤栄作は、西山太吉の政治的な動機などを指摘した。また、「知る権利キャンペーン」を展開する毎日新聞に対して、「そういうことで来るなら、俺は戦うよ」とコメントした。

西山太吉は、佐藤総理を激怒させるほどの批判記事を書いており、次期総裁選候補の大平正芳と親しい記者(一説によると遠い親戚)だったため、沖縄密約を利用した倒閣運動との噂が広まる。

ただし、警察がこれを立件していないことから、社会党の横路孝弘に機密電信文を渡したことは、政治目的ではないとされている。

1972年4月6日、社会党の田英夫らが、「国民の知る権利を守る会」を発足する。

(注釈:田英夫は、共同通信の記者時代に、報道担当として第1次南極観測隊に参加している。)

1972年4月8日、佐藤総理が国会で「国家の秘密はあるものであり、機密保護法の制定は必要である」と発言する。しかし、4月13日に国会で同発言を撤回した。

1972年4月9日、西山太吉は準抗告が認められ、釈放される。一方、蓮見喜久子は釈放の手続きを取らず、起訴されるまで拘留された。

1972年(昭和47年)4月18日、市川房枝らが中心になり、「蓮見さんのことを考える女性の会」を発足する。社会党の土井たか子・佐々木静子・望月優子・田中寿美子らも同会に参加した。

1972年4月15日、蓮見喜久子は国会公務員法100条(秘密を守る義務)違反で起訴され、西山太吉は国会公務員法111条(そそのかし)違反で起訴された。

検事は、「被告人・西山太吉は、被告人・蓮見喜久子と密かに情を通じ、これを利用して同被告人をして安川外務審議官に回付される外交関係秘密文章ないしその写しを持ち出させて記事の取材をしようと企て、1946年5月22日頃、被告人・蓮見喜久子をホテル山王に誘って情を通じた挙句、沖縄関係の秘密文書を頼む、などと執拗に迫った」と起訴を読み上げた。

起訴状には犯罪の成立要件以外については書かないことになっているため、起訴状に「ひそかに情を通じ」という犯罪の成立要件以外の文言を入れたことは異例だった。

また、起訴状に「ひそかに情を通じ」という文言を入れたことにより、「知る権利(沖縄密約)問題」から「不倫事件(情通事件)」へと問題がすり替えられたとされている。

一方、起訴状により西山太吉と蓮見喜久子の2人が肉体関係にあった事を知った毎日新聞は苦境に立たされる。西山太吉が蓮見喜久子との特別な関係について否定していたため、毎日新聞は全く予期していない展開だった。

(西山太吉が蓮見喜久子との情通関係を告白していれば、違った形でキャンペーンを展開し、政府への対策が打てたのではないか、と指摘する声もある。)

1972年4月15日、毎日新聞は夕刊1面で、「本社見解とおわび」を掲載し、知る権利キャンペーンは衰退していった。入れ替わるように、週刊誌によるスキャンダル報道が台頭する。

1972年4月15日、ノーベル文学賞に選ばれたことがある川端康成が自殺し、新聞の話題は川端康成の自殺の理由へと移っていった。

1972年5月16日、「蓮見さんのことを考える女性の会」の市川房枝は、蓮見喜久子の弁護人・坂田治吉の法律事務所を訪れ、坂田治吉から話しを聞く。

市川房枝は蓮見喜久子の所在などについて尋ねるが、教えてもらえず。市川房枝は蓮見喜久子に渡すように頼み、カンパ5000円や手紙などを坂田弁護士に預ける。

一方、東京地裁の1審は、「国家公務員法の秘密の解釈」「憲法が保障する報道の自由の範囲」「西山太吉の行為がそそのかしに該当するか」の3つが争点となり、裁判が進められた。

蓮見喜久子は起訴事実を認めて争わなかった。西山太吉は蓮見喜久子との関係については争わず、知る権利を主張して争った。

外務省機密漏洩事件(西山事件)のあらすじとネタバレの後編」へ続く。

コメント

スポンサーサイト西山太吉と蓮見喜久子のあらすじとネタバレへのコメント

規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。こちらは、コメント欄です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。