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白虎隊の生き残り-飯沼貞吉の実話のあらすじとネタバレ

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「白虎隊の生き残り-飯沼貞吉の実話のあらすじとネタバレ」編です。


このページは「実話-会津若松の白虎隊の悲劇-あらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜』のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■白虎隊で最後に自害した西川勝太郎
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。

そこで、西川勝太郎は「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」と頼んで、自害した。

こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。

■白虎隊の飯沼貞吉は生きていた
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。

飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。

驚いた農民は「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいたします」と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。

そして、農民は「水をくんで参ります」と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていたが、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。

その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。

このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。

(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)

隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。

残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。

しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。

■白虎隊の生き残り-飯沼貞吉のその後
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。

飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。享年79歳であった。墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。

その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。

飯沼貞吉は息子に「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。

なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。

当時は「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。

■白虎隊・西川勝太郎の遺品
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。

会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。

実話「新島八重の桜」の会津編「実話-山本八重のあらすじとネタバレ」へ続く。

スポンサーサイト白虎隊の生き残り-飯沼貞吉の実話のあらすじとネタバレへのコメント

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飯沼定吉さん達は降伏後津軽に追いやられたそうですが、途中仙台に住んでた私の祖母の家に泊まり一宿一飯のお礼にと会津塗りの箸箱を置いて旅立ったそうです。

佐七 : 2013年01月08日(火)

情報ありがとうございます。飯沼定吉さんは敗戦後、仙台を経て津軽へ向かったということは、陸路から青森県へ向かったグループに居たのかも知れませんね。

管理人 : 2013年01月08日(火)

しかし、会津藩戦死者は半年以上、遺体を放置されたそうですが、もちろん白虎隊も。しかも最近の研究だと、飯盛山で自刃したのは六名、他で自刃した者三名、戦死者十名。だとしたら墓に隊士全員の骨がある事自体、疑わしいのですが。農民が埋葬した話は聞いてますが、福井藩士に掘り起こして捨てて来いと言われたとか。その福井藩士は後に会津藩士に斬殺されてますが・・・。

学帽 政 : 2013年05月24日(金)

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