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米沢藩の仙台藩の降伏-奥羽越列藩同盟の崩壊

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津戦争編」のあらすじとネタバレシリーズ「米沢藩の仙台藩の降伏-奥羽越列藩同盟の崩壊」編です。


このページは「南摩綱紀の甥・南摩節が死亡したあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■奥羽越列藩同盟の崩壊
母成峠を突破して、一気に若松城まで兵を進めた新政府軍だったが、会津藩の猛反撃もあり、東北一と称される会津若松城は簡単に落とせなかった。

新政府軍は兵を退いて、外郭(がいかく=外側の塀)から会津若松城を包囲しており、膠着状態が続いていた。しかし、新政府軍の別部隊は着々と奥羽越列藩同盟を制圧していた。

元々、東北諸藩の中にも勤王派の藩も存在しており、新政府よりの藩もあったが、そのような藩も仙台藩・米沢藩・会津藩に脅迫されて奥羽越列藩同盟に参加させられていた。

このため、新発田藩(新潟県)や三春藩(福島県)のように奥羽越列藩同盟を裏切って、新政府軍に味方したり、特に戦いもせずに簡単に新政府軍に降伏したり、奥羽越列藩同盟を離脱したりする藩もあり、奥羽越列藩同盟は簡単に崩壊した。

■米沢藩の降伏
1868年10月19日(慶応4年9月4日=籠城12日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・米沢藩が新政府軍に降伏する。

米沢藩と新政府側の土佐藩とは縁戚関係にあり、土佐藩が米沢藩に降伏を勧告していた。藩主の命は保障されていたほか、寛大な処分が約束されていたため、米沢藩は新政府軍に降伏したのだ。

元々、米沢藩・上杉家は豊臣秀吉に仕えて120万石を有していたが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため、徳川家康によって30万石に減封されていた経緯がある。

米沢藩・上杉家は初代会津藩主・保科正之に御家断絶の危機を救ってもらっており、会津藩には恩義があったが、徳川家には恨みこそあれ、恩義など無かったのだ。

新政府軍への降伏に伴う処罰として米沢藩主・上杉斉憲が隠居すると、上杉茂憲が家督を継ぎ、米沢藩主になる。すると、上杉茂憲は新政府軍に会津討伐の先鋒を願い出て、朝敵の庄内藩討伐に加わった。

■仙台藩の降伏
1868年10月25日(籠城18日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩までもが新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟が消滅する。

仙台藩は米沢藩からの降伏勧告を受けて、降伏の議論を行う。抗戦派も多かったが、戦況の悪化により、降伏を決定。和睦を打診してみたが、認められず、降伏した。

こうして、奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩・米沢藩が新政府軍に降伏したため、奥羽越列藩同盟は完全に消滅し、会津藩は孤立した。

■会津藩が孤立
会津藩は奥羽越列藩同盟からの援軍を頼みの綱に籠城戦を戦っていたが、奥羽越列藩同盟が消滅したため、会津藩は孤立していた。

さらに、各方面を鎮圧した新政府軍が続々と会津に集結しており、会津藩の運命は風前の灯火となっていた。会津藩が期待できるのは、もはや冬の到来だけだった。

実話「山本八重の桜」の会津編「若松城への総攻撃-山本八重の反撃と坂井日清の怨敵退散のあらすじとネタバレ」へ続く。

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