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実話-山本覚馬

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜-京都編」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-山本覚馬(やまもと・かくま)」編です。


このページは「会津藩の降伏後の山本八重-生きていた山本覚馬のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■山本覚馬が京都府顧問に就任
京都で「鳥羽伏見の戦い」が勃発したとき、山本八重の兄・山本覚馬(やまもと・かくま)は薩摩兵に捕まったが、知り合いの薩摩藩士に助けられ、斬首を免れていた。

そして、山本覚馬は薩摩藩邸で幽閉されていたが、幽閉から1年後の1869年(明治2年)に釈放された。

山本覚馬は幽閉中に、同じく幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、近代国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白-時勢の儀に付き拙見申し上げ候(通称『管見』)」を書き上げ、新政府軍に提出していた。

山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は新政府の岩倉具視などに認められたため、山本覚馬は幽閉中も優遇されており、目の治療を受けることが出来たが、1年にわたる幽閉生活で目は完全に失明したうえ、腰を痛めて足を悪くしていた。

釈放後、山本覚馬は兵部省で客員をして働いていたとき、京都府の大参事(現在の副知事に相当)・河田佐久馬(後の河田景与)から顧問就任の要請を受ける。

大参事の河田佐久馬は、山本覚馬が幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」を読み、山本覚馬の才能に惚れ込んでいたのである。(実際は、京都復興を推し進めていた部下の槇村正直の要請とも言われている。)

1870年4月28日(明治3年3月28日)、京都府の大参事・河田佐久馬が大政官に山本覚馬の「雇用伺」を提出する。

一方、新政府も山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」を評価しており、山本覚馬を正式に採用しようとしていたところだった。

このころ、京都は1864年8月に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火事(どんどん焼け事件)が原因で廃れており、1869年(明治2年)には明治天皇が京都から東京へ引っ越す「東京遷都」が進んでいた。

京都は大政奉還のおかげで、棚からぼた餅的に、首都に返り咲いただけなので、東京に首都が移ることについての影響は少ないが、天皇が東京へ引っ越すことは京都の産業にとって大きなダメージだった。

このため、京都府民は東京遷都に大反対した。新政府は京都府民の反発に頭を抱えていた。

そこで、新政府は、諸外国の情報にも明るい山本覚馬を京都の産業復興の切り札として、京都府の顧問として認めることにした。そして、「天皇の置き土産」と呼ばれる産業基立金10万両を京都府に残して、東京へと遷都することにした。

京都府は、さらに勧業基立金15万両を新政府から借りることができ、東京遷都と引き替えに、山本覚馬と25万両という大金を手にすることになる。

1870年5月14日(明治3年4月14日)、山本覚馬雇用伺の許可が下り、山本覚馬は京都府の顧問として働くことになる。

その後、木戸孝允の懐刀と言われる槇村正直が、河田佐久馬の後任として京都府の大参事に就任し、1872年(明治5年)に山本覚馬は正式に京都府顧問として就任する。

京都府の知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)は単なる飾りで、京都府の実権は大参事(府知事)が握っており、槇村正直が京都府の実質的なトップとなる。

槇村正直は長州藩の木戸孝允の懐刀で、産業に関する実績があったため、木戸孝允が京都へ送り込んだ人材とも言われており、京都の産業復興のために辣腕を振うことになる。

一方、山本覚馬は禁門の変(蛤御門の変)のとき、長州軍が立て籠もる鷹司邸を砲撃し、火事を起こして京都を焼け野原にした張本人だった(火事の原因は諸説ある)。

京都を焼け野原にした山本覚馬が、今後は京都府の顧問として京都の産業復興の為に尽力することになる。

京都の産業復興という目的が一致していた山本覚馬と槇村正直の2人は、蜜月の関係で京都改革を推し進めていくのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「山本覚馬と小田時栄(おだ・ときえ)-山本八重の再会のあらすじとネタバレ」へ続く。

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