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山本八重と川崎尚之助の再会

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜-京都編」のあらすじとネタバレシリーズ「山本八重が川崎尚之助と再会」編です。


このページは「小野組転籍事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜-京都編」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■戊申戦争後の川崎尚之助
1873年(明治6年)、山本八重が兄・山本覚馬の目や足となり、東京で小野組転籍事件の解決に奔走していたころ、夫の川崎尚之助は東京で食事にも事欠くほどの苦しい生活を送っていた。

会津藩の降伏後、会津藩士・川崎尚之助は他の会津藩士と同様に会津降人となり、猪苗代で謹慎した。その後、川崎尚之助は猪苗代から東京へ身柄を移され、東京で謹慎した。

会津藩の降伏後、山本八重は死んだ弟・山本三郎を名乗って猪苗代へ向かったが、女だと知られてしまい、追い返され、夫の川崎尚之助と生き別れとなった。

1869年12月5日(明治2年11月3日)、平容保の子・松平容大は家名存続が許さ、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩する。

1870年2月5日(明治3年1月5日)に会津降人の謹慎が解けると、会津藩士は続々と斗南藩へ向かった。川崎尚之助は東京から京都へと移り、その後、1870年10月に斗南藩へ入った。

斗南藩は名目3万石だったが、3万石とは名ばかりで、寒さが厳しいため、実質7000石しかない不毛の地だった。

会津藩は青森県で斗南藩を立藩したものの、会津の実質30万石から実質7000石へと減収になったため、斗南藩士は貧困にあえぎ苦しい生活を強いられた。寒さと飢えに苦しみ、死んでいった者も多かった。

斗南藩から「開産掛」に任じられた川崎尚之助は、商取引によって利益をあげるため、斗南藩士・柴太一郎と共に北海道・函館へと渡った。

そして、川崎尚之助は函館で斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合い、米座省三を通じて、広東米の取引を行っているというデンマーク商人デュークと知り合った。

そこで、川崎尚之助は飢えに苦しむ斗南藩を救うため、斗南藩が栽培している大豆の収穫を担保に、広東米を購入する先物取引を行った。

ところが、米座省三がデンマーク商人デュークから受け取った広東米の先物手形を担保に、ブランキントン商会からお金を借りて逃走してしまった。

その後、逃走していた米座省三が東京で捕まり、米座省三の素性が判明する。米座省三は会津藩士でも斗南藩士でもなく、信州出身の出入り商人だった。

こうして、米座省三が斗南藩士では無いことが判明したため、川崎尚之助は広東米の先物手形を取り戻す事が出来た。

しかし、斗南藩は担保としていた大豆の栽培に失敗していため、契約不履行となる。

そこて、川崎尚之助は受け取った広東米を売却して代金で弁済しようとしたが、米相場が大きく下落しており、代金の一部しか弁済できなかった。

このため、川崎尚之助・柴太一郎・米座省三の3人は、デンマーク商人デュークに訴えられたのである。

斗南藩は一連の問題に対して、「藩命ではない」として関与を否定したため、「川崎尚之助は藩命はなかったが、飢餓に苦しむ大勢の人を見捨てておけず、独断で取引を行った」と供述し、全ての罪を背負った。

この結果、東京で裁判が行われることとなり、川崎尚之助・柴太一郎・米座省三の3人は、東京へ身柄が移され、川崎尚之助は東京の身元引受人の元で暮らすことになる。

川崎尚之助は斗南藩士だったが、給料は無く、食事にも困るほど不遇な生活を過ごした。さらに、身元引受人が3度も変わるという災難に見舞われた。

山本八重と山本覚馬が小野組転籍事件を解決するため、東京で奔走していたのは、川崎尚之助が2人目の身元引受人・川上啓蔵の預かりとなり、鳥越明神にある川村三吉の自宅に居候していた1873年(明治6年)のことである。

■山本八重と川崎尚之助の再会
1873年(明治6年)、川崎尚之助が鳥越明神にある川村三吉の自宅に居候しているとき、山本八重と山本覚馬は川崎尚之助の噂を聞き、川村三吉の自宅を訪れた、という逸話がある。

山本八重が川崎尚之助と再会するエピソードは小説に登場するが、小説家が伝承を元にして小説にしたのか、小説が広まって伝承となったのかは判断できない。

いずれにしても、山本八重が東京で川崎尚之助と再会したという逸話であり、それを裏付ける資料は無い。これまでは実話のように紹介されていたが、現在は小説家による創作という説が有力となっている。
なお、山本八重が川崎尚之助と再会する部分以外は実話である。

■山本八重との再会(逸話)
逸話によると、1873年(明治6年)に山本八重と山本覚馬の2人は、風の噂で川崎尚之助が東京に滞在していることを知り、川崎尚之助が居候している川村三吉の家を訪ねてきた。

数年ぶりに再会した川崎尚之助の姿は変わり果てていた。もやは、川崎尚之助には、会津藩で大砲隊を指揮して新政府軍と戦った時の面影は無く、見るも無惨に痩せこけていた。

山本覚馬は「京都の復興に力を貸して欲しい」と頼んだ。山本八重も「京都で一緒に暮らしましょう」と誘った。

しかし、裁判があるため東京を離れらる事の出来ない川崎尚之助は「塾で子供たちに勉強を教えているので、東京を離れるわけにはいかない」と言い、裁判の事は告げずに、山本八重の誘いを断ったという。

■川崎尚之助の不遇
川崎尚之助は斗南藩士だったが、斗南藩からは給料が出ておらず、裁判所から支給されるわずかなお金で生活しており、食事にも困るほどの生活だった。

既に川崎尚之助は食うや食わずの生活でやせ細っており、いつしか病気になっていた。しかし、医者にかかるお金も無かった。

これを見かねた米沢藩士・小森沢長政が、わずかながらも、川崎尚之助に援助したという。

川崎尚之助は戊辰戦争のとき、砲術修業に来た米沢藩士に砲術を指導した。米沢藩士・小森沢長政はそのとき、川崎尚之助から砲術をならっていた。いわば、小森沢長政は川崎尚之助の弟子である。

■川崎尚之助が死去
1874年(明治7年)、米座省三の裁判が函館で行われることとなり、東京で謹慎している川崎尚之助・柴太一郎の2人も函館へ呼び出される。

このため、川崎尚之助は函館に向けて出発するが、病気のため途中で東京へと引き返した。

再度、函館から出頭要請が来たため、川崎尚之助は函館に向かうことになるが、脚気により、再び函館行きは不可能となった。

1875年(明治8年)2月5日、身元引受人が斗南藩士・根津親徳に変わる。根津親徳(ねづ・ちかのり)が3人目の身元引受人である。

既に川崎尚之助の病気は重症になっており、根津親徳は1875年(明治8年)2月7日に東京医学校病院へ川崎尚之助を入院させる。

しかし、治療のかいは無く、川崎尚之助は1875年(明治8年)3月20日に東京医学校病院で死亡した。死因は慢性肺炎だったとされている。

川崎尚之助の遺体は、3人目の身元引受人・根津親徳が引き取り、東京都台東区にある称福寺に埋葬したとされている。しかし、称福寺に川崎尚之助の墓は無く、詳細は分らない。

川崎尚之助は東京で不遇な生活を送り、2つの狂歌を残した。いずれの狂歌も、川崎尚之助が鳥越明神にある川村三吉の自宅に居候為ていたときに詠んだ詩だとされている。

「このころは、金のなる子の、つな切れて、ぶらりとくらす、とりこえの里」

「今日はまだ、かてのくばりは、なかりけり、貧すりゃドンの、音はすれども」

■川崎尚之助の裁判
裁判の結果、柴太一郎は禁固100日、米座省三は禁固2年半となった。川崎尚之助の裁判は係争中だったが、川崎尚之助の死亡により終了する。デンマーク商人デュークは国を訴えたが、国は訴えを棄却した。

川崎尚之助の死後、砲術の教え子であった米沢藩士の小森沢長政が、京都で暮らす山本八重の元に手紙を送り、川崎尚之助の死を知らせたという説もあるが、真偽は不明である。

■川崎尚之助と山本八重の離婚
通説では、川崎尚之助と山本八重は離婚(離縁)したとされているが、2人の離婚を裏付ける資料は見つかっていない。

ただ、川崎尚之助の死後、相続人が調査されたが、川崎尚之助は「相続人無し」として処理されており、山本八重の名前は出てこない。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島襄のあらすじとネタバレ」へ続く。

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