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実話-新島襄が山本八重と結婚した理由のネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が山本八重と結婚した理由のあらすじとネタバレ」です。


このページは「実話-新島襄の同志社設立物語-仏教徒の反発のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄が山本八重と結婚
1876年(明治9年)1月2日、山本八重が京都御苑内にある宣教師J.D.デイヴィス邸で、プロテスタント式の洗礼を受ける。山本八重は、京都で初めてキリスト教の洗礼を受けた人物となる。

1876年(明治9年)1月3日、新島襄(32歳)が山本八重(30歳)と結婚し、山本八重は新島八重となる。井戸の上での出会いから、わずか半年でのスピード結婚だった。

結婚式は、当時は珍しいウエディングドレスを着用する西洋式だったが、きわめて質素で、40人程度の小規模のな結婚式だった。

一時は2人の仲人を務めるとまで言っていた京都府の大参事・槙村正直は、結婚式には出席していない。新島襄の家族は安中(群馬県)に居るため、出席していない。

結婚式にかかった費用はわずか10銭だけだった。その10銭も車代(人力車代)だった。人力車代は通常5銭だが、結婚式の祝儀として人力車に10銭を払った。それ以外に費用はかからなかった。

それでも、新島襄にしてみれば盛大な結婚式だった。新島襄はもっと質素な結婚式を挙げたかったのが、キリスト教のピーアールしたいという宣教師の思惑により、新島襄の希望よりも少し豪華になっていた。

■新島八重の新婚生活
新島襄が山本八重と結婚した理由は、病気だった。新島襄は子供の頃に麻疹(はしか)に感染して以降、眼病や不眠症やリュウマチなどに苦しみ、度々、勉強の中断を余儀なくされていた。

新島襄の半生は病気との闘いでもある。かつて「疑惑の総合商社」と呼ばれた政治家が居たが、常に病気に悩まされていた新島襄は「病魔の囚人」「病気の百貨店」である。

新島襄は、アメリカ時代にも頭痛やリュウマチに悩まされており、岩倉使節団の随行でヨーロッパを訪れたときもリュウマチに悩まされていた。ヨーロッパの寒さでリュウマチが辛いため、日本に帰ろうと悩んでいた時期もあった。

ただ、病気は悪いことばかりでは無く、新島襄が病気に悩まされていなければ、新島襄は山本八重と結婚していなかったと言っても過言ではない。結婚を諦めていた新島襄が、山本八重と結婚した理由の1つは、病気なのだ。

結婚相手の条件をクリスチャンとしていた新島襄は、アメリカから帰国したとき、「日本国中を探しても希望する女性は居ないだろう」と、結婚を諦めていた。

しかし、新島襄は帰国後に大阪で体調を崩したため、キリスト教を布教させるためには伴侶が必要だと考えを改めた。そして、結婚相手を探し始めたのだ。

そのようななかで、出会ったのが山本八重(新島八重)だった。特に仏教色の強い京都で、キリスト教に理解を示す山本八重と出会えたことは奇跡的なことであった。

新島襄の一生は病気との闘いで、新島八重の結婚生活は介護との戦いだった。あまり知られていないが、新島八重は献身的に新島襄を介護しており、結婚生活の3分の1は新島襄の看護に費やしている。

■新島襄の本音
新島襄の研究で有名な教授は、新島襄の結婚について「京都では山本八重の他に選択肢が無かった」と分析している。

新島襄も「お前の強情さはかねがね兄さんや槇村さんから聞いてはいたが、こんなに酷いとは思わなかった。私はとんだしもうたことをしてしもた」と述べている。

また、新島襄は「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、と考えさせられるほど、性格においても相反している事を後になって発見して悩むことがある。しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」と語っている。

この部分は下書きのままだったので、「新島八重(山本八重)が新島襄と結婚した理由」も合わせてご覧ください。

■新島民治が上京
1876年(明治9年)4月26日、新島襄の父・新島民治(にいじま・たみじ)ら一家が、安中(群馬県)から京都に到着する。父・新島民治ら一家は、新島夫婦と同居せずに新島家の離れに住んだ。

■新校舎の完成
1876年(明治9年)9月、山本覚馬が提供した土地(薩摩藩邸跡)に校舎が完成し、高松保実の中井屋敷から同志社英学校を新校舎へ移転する。薩摩藩邸跡に建設した新校舎が現在の同志社大学今出川校となっている。

校内での聖書の授業は禁止されていたが、校外(自宅)で聖書の授業を行うことは許可されていたため、中井屋敷時代は新島襄の自宅で度々、聖書の授業を行っていた。

同志社英学校を新校舎に移転してからは、新校舎の東側の道路向かいある豆腐屋跡を40円で買い取り、そこを新島襄の自宅と称して、聖書の授業を行うようになった。

密かに聖書の授業を行っていた豆腐屋跡は、「30番校舎」「イングランド」などと呼ばれていた。

しかし、新島襄を軽視する宣教師は度々、校内でも聖書の授業を行っていた。

同志社を潰そうとする外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、京都府に同志社の抜き打ち視察を命じており、京都府の抜き打ち視察で、在日宣教師による聖書の授業が発覚してしまう。

すると、新島襄は京都府庁に呼び出され、弁明書を提出し、火消しに奔走しなければならなかった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-熊本洋学校の物語-熊本バンドの誕生と同志社のあらすじとネタバレ」へ続く。

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