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新島八重と同志社

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島八重と同志社-明治18年事件の真相」です。


このページは『新島襄の「自責の杖事件」の黒幕は秘密結社「同心交社」のあらすじとネタバレ』からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重が私塾を開く
1876年(明治9年)1月3日に新島襄と結婚した新島八重は、同年2月にドーン夫人とともに新島邸(借家)で私塾を開く。

生徒は男の子1人に女の子の姉妹の計3人という小さな私塾だったが、男の子は恥ずかしくなって辞めてしまい、姉妹の姉は死に、姉妹の妹は勉強が嫌になって辞めたため、私塾は直ぐに自然消滅した。

新島八重はこの私塾を「同志社女学校の祖」としているが、同志社女子大学は同志社女子大学の始まりを1876年(明治9年)10月に宣教師デイビスが開校した「同志社女子塾」としている。

■宣教師デイビスが同志社女子塾を開く
1876年(明治9年)10月、宣教師デイビスは女性宣教師スタークウェザーを招いて、宣教師デイビスが住んでいる柳原前光邸の一角に同志社女子塾を開く。通学者8人と寄宿舎4人の小さな塾だった。

当時は日米修好通商条約の関係で、外国人が日本の内陸部に住むためには、日本人に雇用される必要があったため、校長は新島襄が務めた。

しかし、新島襄が校長になるのは名義上であり、本当の開設者は宣教師デイビスで、事実上の運営者・校長は宣教師スタークウェザーであった。

新島襄は同志社女子塾を開設するために奔走しているが、女性への教育は熱心ではなく、同志社女子塾の開設を主張したは宣教師デイビスであった。

宣教師デイビスは非常に女性への教育に熱心で、前年の1875年(明治8年)にも神戸で女学校「神戸ホーム」を開設していた。この神戸ホームが、現在の「神戸女学院大学」になっている。

また、宣教師デイビスは同志社英学校(ミッション・スクール)と平行して女学校の建設を主張していた。新島八重が自宅で私塾を始めたのも、宣教師デイビスの影響だと思われる。

新島襄は女性への教育については力を入れていなかったが、宣教師デイビスの影響によって、女性への教育にも力を入れるようになった。それは、同志社女子塾が開かれてから暫くしてのことである。

宣教師は、神戸に開校した学校「神戸ホーム」にちなんで、京都に開設した同志社女子塾を「京都ホーム」と呼び、同志社英学校のことは「京都ミッション・スクール」と呼んでいた。

その後、同志社女子塾は1877(明治10)年4月に許認可を受けて「同志社分校女紅場」となり、1877年(明治10年)9月には「同志社女学校」へと改称している。

■新島八重とスタークウェザーの対立
宣教師デイビスが1876年(明治9年)10月に開いた同志社女子塾では、女性宣教師スタークウェザーが実質的な校長を務めた。新島八重も協力して同志社女子塾で教師を務めた。

母・山本佐久と姪「山本みね」の2人は1876年(明治9年)12月3日にキリスト教の洗礼を受け、母・山本佐久も同志社女子塾の舎監として、同志社女子塾で働くようになる。

新島八重と山本佐久の2人はキリスト教の洗礼を受けていたものの、会津藩時代の日新館童子訓を基礎としており、女性宣教師スタークウェザーの教育方針にそぐわなかった。

なんと、新島八重はキリスト教を教える同志社女子塾で、女子生徒に小笠原式古礼法を教えだしたのである(新島八重は英語のスペリングも教えた)。

小笠原式古礼法とは武家社会の礼儀作法で、新島八重の故郷・会津藩の会津藩校「日新館」が会津藩士に教えていた礼儀作法である。

女性宣教師スタークウェザーはこれに激怒し、新島八重を「非キリスト教的な考え方が根付いている」と批判して徹底的に対立した。

一方、舎監になった母・山本佐久は、女学生と結託し、寮から宣教師を排除した。母・山本佐久が舎監になってから、日本人と外国人宣教師の対立は激しくなっていく。

■同志社女学校の設立
新島八重が新島邸でドーン夫人と開いた私塾は自然消滅したが、2人が京都で私塾を開いたことがアメリカに伝わっており、アメリカン・ボードでは日本に女子学校を建設するための女学校建設運動が起こっていた。

アメリカで起きた女学校建設運動によって多くの寄付が集まり、宣教師デイビスはアメリカン・ボードから6000ドルの寄付を受けた。

新島襄が帰国時にアメリカン・ボードから受けた寄付金は5000ドルだったので、女子学校の建設に対する期待の大きさがうかがえる。

6000ドルの寄付を受けた同志社女学校は新校舎建設の候補地を探すが、当時の京都はキリスト教に対する抵抗が強かったため、同志社が新たな土地を調達するのは困難だった。

そこで、新島襄は材木商の堀本利慶に土地の購入を頼み、堀本利慶が堀本利慶名義で二条家邸跡を購入することで、同志社女学校の土地を確保した。

こうして、同志社女学校は1878年(明治11年)7月に二条家邸跡に建てた新校舎へ移転した。この移転した二条家邸跡が、現在の同志社女子大学となっている。

実話「新島八重の桜」の京都編「山本佐久と同志社-宣教師スタークウェザーの真相のあらすじとネタバレ」へ続く。

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