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新島襄が同志社大学を明治専門学校へ変更した理由

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が同志社大学を止めて明治専門学校を設立する理由のネタバレ」です。


このページは「山本覚馬と槇村正直の租税追徴事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■同志社に追い風
地租追徴事件によって元老院議官へと左遷された京都府知事・槇村正直の後任として着任した3代目・京都府知事の北垣国道は、キリスト教にも理解があり、新島襄や山本覚馬と良い関係を築いた。

その北垣国道が、娘を同志社女学校(元・同志社女子塾)へ入学させると、京都府知事に楯突くことを恐れたのか、同志社英学校やキリスト教に対する風当たりは弱まり始めた。

同志社英学校を開校以来、常に批判に晒されていた新島襄に、念願の退学設立の好機が訪れたのである。

■同志社大学の設立
1882年(明治15年)11月7日、新島襄は同志社大学の設立に向けての準備に取りかかる。

1883年(明治16年)4月、新島襄と山本覚馬は「同志社大学設立旨趣」を発表し、同志社大学の設立に向けて本格的に動き出した。

1884年(明治17年)1月、発起人会が発足し、設立する学校名を「同志社大学」から「明治専門学校」へと変更する。

■同志社大学が明治専門学校になった理由
「同志社大学設立旨趣」を発表していることからも分かるとおり、新島襄は当初、「同志社大学」という名称で設立するつもりだったのだ。

しかし、「同志社」という名前はキリスト教のイメージが付いているため、キリスト教という理由だけで寄付を拒否する財界人・政界人も多かった。

そこで、新島襄や山本覚馬は、キリスト教というイメージを無くすため、「同志社大学」ではなく、「明治専門学校」という名称で大学を設立することにしたのである。

このとき、新島襄の支援者には、大沢善助や田中源太郎などの京都の有力者や財界人が多かった。これは教徒府会議員をしていた山本覚馬の弟子が、同志社の支援者になったからである。

こうした政界人・財界人の支援者は、洗礼を受けてキリスト教に入った者も多少は居たが、キリスト教に入信為ていない者が多かった。

大沢善助らは非キリスト教徒であったが、同志社女子校が廃校の危機に瀕したとき、金銭的に支援して同志社女子校を救っていた。

また、同志社大学設立の発起人に名を連ねており、非キリスト教との財界人が新島襄の協力な支援者となっていた。

山本覚馬関係の政界人・財界人はキリスト教に抵抗なく同志社を支援したが、多くの財界人から寄付を募るためにはキリスト教は大きな問題であった。

このため、キリスト教のイメージが強い「同志社大学」を止め、「明治専門学校」という名称に変更したのである。

これに激怒したのがキリスト教関係者である。この名称変更の件に関して、キリスト教関係者は不満を募らせ、新島襄を批判した。

「愚直一本の耶蘇坊主」と呼ばれていた新島襄であったが、寄付集めに力を入れるようになると、実業家としての側面が強くなってきたため、キリスト教関係者の中には新島襄を「新島襄はお金のために、十字路で悪魔に魂を売った」と批判する者も居たという。

■新島襄の第1次大学設立運動
1884年(明治17年)4月、新島襄は京都商工会議所で明治専門学校の設立に向けた集会を開き、大学設立運動は大きく盛り上がっていく(第1次大学設立運動)。

しかし、ただ同志社大学を設立するだけでは駄目だった。同志社大学を設立するためには、同志社英学校の抱える問題を解決しておく必要があった。

■同志社英学校の退学問題
新島襄は同志社英学校を開校したものの、退学者が多かった。1886年(明治19年)は入学生184人に対して、卒業生は3人、退学者は98人である。

同志社英学校は1875年(明治8年)に開校して以来、卒業生が20人を超えるのが珍しい状態であった。同志社英学校に途中退学者が多い理由は、徴兵制度にあった。

明治政府は1873年(明治6年)に徴兵令を布告し、徴兵制度を制定した。明治政府は徴兵令で官公立学校にのみ兵役免除の特権を与えたが、私塾(私立学校)には兵役免除を認めなかった。

新島襄が設立した同支社英学校は「私塾」なので、兵役免除の特権は受けることが出来なかった。だから、同志社英学校は徴兵の関係で中退者が多かった。

東京の3大義塾と言われる、福沢諭吉の「慶應義塾学校」、近藤真琴の「攻玉塾」、中村正直の「同人社」も私塾であったため、兵役免除の特権は受けられず、退学者の続出に悩まされた。

新島襄が「明治専門学校(同志社大学)」を設立したとしても、私塾である以上、この徴兵制度に伴う退学問題が付きまとう。

徴兵による生徒の中退は同志社英学校の経営難の要因の1つであった。実際に中村正直が設立した私塾「同人社」は、兵役に伴う生徒数の減少により、1887年(明治20年)に廃塾となっている。

また、大学となると博士号を与える関係もあるため、「明治専門学校(同志社大学)」の設立するために、解決しておかなければならない課題であった。

そして、同志社はこの徴兵制度の関係で、同志社に入学していた松平容大を失ってしまった。松平容大を失った新島八重は大いに落胆したという。

■松平容大の転校
新島八重や山本覚馬が居た関係で、同志社英学校は会津からの生徒を多く受け入れており、会津藩主・松平容保の嫡男・松平容大も1888年(明治21年)に同志社英学校へ入学した。

(松平容大は、会津藩主・松平容保の実子で、会津藩の降伏後、家名存続が許され、斗南藩の藩主となった人である。)

しかし、松平容大は同志社英学校では徴兵免除の特例が受けられないため、1889年(明治22年)に官立学校「学習院」へと転校してしまったのである。

会津出身の新島八重にとっては、松平容大の同志社入学は名誉なことであったが、翌年には松平容大が転校してしまったため、大いに悲しんだとされている。

ただ、松平容大が転校した表向きの理由は「徴兵免除の特例を受けるため」だったが、松平容大は傍若無人に育っており、大阪の遊郭でチョメチョメするなどの問題を起こしたことが転校の本当の理由だとされている。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄がアルプスのサンゴタール峠で心臓麻痺のあらすじとネタバレ」へ続く。

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