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A・ハーディーの死因-大島正満と日向ユキと雑賀浅

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「A・ハーディーの死因-大島正満と日向ユキと雑賀浅」です。


このページは「アンドーヴァー論争と教会合同運動のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重が日向ユキと再会
新島八重と新島襄の2人は1887年(明治20年)6月17日、宮城県に開校したキリスト教主義学校「仙台東華学校」の開校式に出席する。

地方教育の重要性を指摘する新島襄は、会津を足がかりに東北へ進出し、前年の1886年(明治19年)に開校した宮城英学校(同志社英学校の分校)が仙台東華学校と改称し、新島襄は仙台東華学校の初代校長に就任した。

仙台東華学校の開校式が終わると、新島襄らは避暑を兼ねて北海道へ向かい、1887年7月3日に函館へ到着する。

函館は新島襄が国禁を犯して密出国した場所だった。新島襄は脱国した思い出の港を訪れ、港を見て回った後、近くにあるイギリスの貿易会社「アレクサンダー・ポーター商館」を訪れた。

アレクサンダー・ポーター商館は、密出国を手助けしてくれた恩人・福士卯之吉が勤務していた貿易会社だった。

新島襄はアレクサンダー・ポーター商会の建物をみて驚く。当時のアレクサンダー・ポーターは函館で最も大きい貿易商だったが、現在のアレクサンダー・ポーター商会の建物はボロボロになっていた。

新島襄がアレクサンダー・ポーター商会に入ると、社長アレクサンダー・ポーターに事情を尋ねた。

アレクサンダー・ポーターによると、従業員の不正(着服)によりアレクサンダー・ポーター商会は倒産したということだった。しかも、不正をした従業員は1当地で商売を始めたという。

アレクサンダー・ポーターは、「倒産するとみんなは会社を無茶苦茶にした。以降、誰も尋ねてくる者は無い。貴方は番頭の福士卯之吉に世話になっただけのなに、会いに来てくれた」と、新島襄の訪問に感謝した。

新島襄はアレクサンダー・ポーターに金を包むと、密出国の恩人・福士卯之吉が住んでいる札幌に向かい、福士卯之吉との再会を果たした。

■新島八重が日向ユキと再会
札幌を訪れた新島襄は、福士卯之吉の自宅に滞在し、旧交を暖める。一方、新島八重は札幌滞在中に思わぬ人と再会することになる。

新島八重は、札幌で再会した雑賀浅(さいが・あさ)から、幼なじみの日向ユキも札幌に住んでいることを聞き、1887年7月14日に幼なじみの日向ユキと再会する。

雑賀浅は、会津藩の家老・簗瀬三左衛門の娘で、会津藩時代の旧友である。日向ユキは会津時代、新島家の裏側に住んでいた幼なじみである。

会津戦争のとき、新島八重は籠城したが、日向ユキは若松城に入ることが出来ず、市外へ逃げた。日向ユキの父と兄の2人は出陣して戦死した。

会津藩の敗戦後、日向ユキは会津藩が立藩した南斗藩(青森県)へ移住したが、北海道に住んでいた雑賀浅夫婦が病気になったため、手伝いに来て欲しいと頼まれて北海道へ移住していた。

そのときに、内藤兼備との結婚が持ち上がり、日向ユキは1872年に内藤兼備と結婚して、北海道の札幌で住んでいた。

夫の内藤兼備は戊辰戦争にも従軍した元・薩摩藩士で、日向ユキと内藤兼備の結婚が、犬猿の仲となった会津と薩摩で最初の結婚だとされてる。

なお、日向ユキが生涯を北海道で暮らし、故郷に戻らなかったのは、薩摩藩士と結婚したからだと言われてる。

(実話「日向ユキの生涯」のあらすじとネタバレは「日向ユキ(ひなた・ゆき)のwiki」をご覧ください。)

■新島襄と大島正満
新島八重は、2度結婚しているが、いずれも子供を作っていない。ただ、北海道には新島夫婦が我が子のように溺愛した子が1人居る。それが、牧師・大島正健の息子・大島正満である。

新島八重夫婦が札幌を訪れたとき、出迎えてくれた1人に、札幌で活動している牧師の大島正健がいる。

牧師・大島正健は、札幌農学校の1期生で、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の教え子だった。

クラーク博士の影響を受けて、キリスト信仰の誓約書に署名した札幌農学校の生徒を「札幌バンド」と言い、大島正健も札幌バンドの1人だった。

(脱国した新島襄がアメリカでアーモスト大学に通っていたとき、クラーク博士の授業を受けており、新島襄の紹介によって、クラーク博士は札幌農学校の教頭に就任していた。)

この牧師・大島正健には3歳の子供・大島正満がおり、子供がいない八重と新島襄は、大島正満を我が子のように溺愛していた。新島襄が背負った子共は、大島正満だけだとも言われている。

新島襄は大島正満が居る北海道に避暑地を購入しようと思い、日向ユキの夫・内藤兼備に避暑地を探すように頼んでいた程だった(最終的には購入に至らなかった)。

牧師の大島正満は宣教師の資格が無いにもかかわらず、布教活動をしていたため、問題となっていたが、翌年の1888年1月16日に東京で新島襄の按手礼を受けて、宣教師になっている。

なお、新島襄の死後、大島正健は同志社の数学の教員となり、息子の大島正満は同志社中学校に入学している。大島正満は後に有名な生物学者となっている。

■A・ハーディーの死去
北海道で大島正満と出会い、心身共に安らかな時間を過ごしていた新島襄であったが、一通の手紙により状況は一変する。

1887年(明治20年)8月13日、「アメリカの父」と慕ったA・ハーディーの死亡を知らせる手紙が、新島襄の元に届く。

A・ハーディーは、新島襄が脱国してアメリカに渡る時に乗ったアメリカ船「ワイルド・ローバー号」の持ち主で、脱国犯の新島襄を養子同様に迎え入れてくれた恩人だった。

新島襄は帰国後もA・ハーディーから金銭的な支援を受けており、新島襄はA・ハーディーのことを「アメリカの父」と敬愛していた。

そのA・ハーディーが死んだのである。訃報を知った新島襄は、大きなショックを受けて寝込んでしまう。

なお、A・ハーディーは足の上にハサミが落ちて怪我をしたことが原因で敗血症になり死亡した。新島襄をアメリカまで運んだワイルド・ローバー号の船長ホレイス・テイラーは、岸と船の間に挟まって死んでおり、2人の死因には「はさみ」という共通点があった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-山本久栄と徳富健次郎(徳冨蘆花)の生涯のあらすじとネタバレ」へ続く。

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