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実話-新島襄の余命宣告のネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の余命宣告のあらすじとネタバレ」です。


このページは「実話-松平容大が同志社に入学のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■A・ハーディー記念学校
1887年(明治20年)11月、宣教師ベリーやリンダ・リチャーズの協力によりって建設していた京都看病婦学校と同志社病院が完成し、それぞれ運営を開始する。

一方、アメリカではA・ハーディーの記念学校を日本に建設する計画が持ち上がっていた。

アメリカでは、神学論争「アンドーバー論争」の結果、宗教団体「アメリカン・ボード」からアンドーバー神学校派が排除され、アンドーバー神学校派は勢力を弱めていた。

(注釈:アンドーヴァー論争については「アンドーヴァー論争と教会合同運動のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

そこで、アンドーバー神学校派は、日本にA・ハーディー記念学校を建設して、日本で巻き返しを図ろうとしていた。

A・ハーディーを「アメリカの父」として慕っていた新島襄であったが、「お金は同志社英学校に集中して欲しい」として、A・ハーディー記念学校を建設には反対した。

新島襄には「明治専門学校」を設立するという大きな目標が残っているのだ。

(注釈:当初は「同志社大学」を設立する予定であったが、同志社という名前ではキリスト教のイメージが付いており、募金を嫌がる人も多いため、名称を「明治専門学校」へと変更している。)

■第2次大学設立運動
新島襄の欧米外遊により、大学設立運動は下火になっていたが、1887年(明治20年)夏に新島襄が北海道旅行から戻ると、再び「明治専門学校」の設立に向けて動き出す(第2次大学設立運動)。

第2次大学設立運動は、以前の第1次設立運動の時よりも環境は良くなり、同志社にさらなる追い風が吹いていた。

1885(明治18年)12月22日には、明治政府は太政官制度を廃止して内閣制度を創設し、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任ている。

このとき、初代文部大臣に就任したのが、脱国した新島襄にアメリカでパスポートや留学免許状を発行した森有礼(薩摩藩出身)であった。

初代文部大臣に就任した森有礼は、新島襄に「同志社英学校を中学校に昇格させるべきだ。専門科を設置すれば、博士号を与える大学にすることも夢では無い」と言い、後押しした。

一方、初代外務大臣には井上馨(長州藩出身)が就任した。以前は宣教師の雇い入れの申請や更新の度に、外務卿(外務大臣)の寺島宗則(薩摩藩出身)が立ちはだかっていた。

しかし、初代外務大臣に就任した井上馨(長州藩出身)はキリスト教に理解があり、新島襄の明治専門学校の設立に賛同し、支援した。

文部大臣と外務大臣の2人が新島襄の大学設立に賛同しており、明治専門学校を設立するには絶好の好機が訪れていた。

また、三代目の京都府知事・北垣国道はキリスト教に理解を示し、娘を同志社女学校に入学させていた。北垣国道も新島襄の大学設立に協力していた。

そして、京都府議会の初代議長を務めた山本覚馬の協力によって、京都の有力者も明治専門学校の設立に賛同しており、京都での地盤も固まりつつあった。

こうして、多くの政界人・財界人から寄付金が集まったが、それでも、大学の設立にはまだ多くの寄付金が必要であった。

■新島襄の余命宣告
1888年(明治21年)4月5日、新島襄は知恩院で、京都の名士・数100人を集めて、明治専門学校の設立を訴えた。

1888年(明治21年)4月22日、新島襄は初代外務大臣・井上馨の自宅で、政財界の有力者を招いて集会を行う。しかし、新島襄は集会の席で倒れてしまった。

このため、新島襄は徳富猪一郎(徳富蘇峰)の助言を受けて、鎌倉にある海浜院で保養することにした。

1888年(明治21年)5月9日、新島襄は東京帝国大学のドイツ人医師ベルツの診察を受ける。ベルツの診断によると、新島襄は心臓病で、死を覚悟しなければならない、ということであった。事実上の予定宣告である。

新島襄は欧米外遊中の1884年(明治17年)8月6日にサンゴダール峠で心臓発作を起こして倒れた。そのとき、医師の診察をうけており、心臓病であることは知っていた。ついに覚悟していた時期が近づいていたのだ。

1888年(明治21年)5月11日、新島襄は1通の手紙を送る。ドイツ人医師ベルツから余命宣告を受けた新島襄が筆を執った相手は、同志社の支援者で、「大和の山林王」と呼ばれる土倉庄三郎であった。

■土倉庄三郎への手紙のあらすじ
このような事態は覚悟しておりましたが、ただ心配なのは妻の事です。私の死後もしばらくは生活できるでしょうが、その先は不安です。晩年におよんで妻を路頭に迷わせたくはありません。

このことで、貴方にお願いしたい事があります。かねてよりお話のあったマッチ用の植林の事です。300円をお預けいたしますので、共同出資者として、20年後、妻に利益を分配してください。

もし、利益が無い場合はそれまでのこと。妻が生存していない場合は同志社の資金に加えてください。

■新島八重の余命宣告
1888年(明治21年)7月2日、新島八重は密かに医師・難波一の元を訪れ、新島襄の症状を尋ねる。

難波医師は新島八重に、新島襄と同様の症例を示し、新島襄は心臓病で治る見込みは無いこと、突然死のような死に方をする可能性もあることなどを丁寧に説明した。

これを聞いた新島八重は放心状態となり、真っ直ぐには帰えることができず、買い物をして気分を落ち着かせてから帰宅したという。

帰宅した新島八重は難波医師から聞いた余命宣告を新島襄に伝えようとしたが、ただ涙がこぼれるだけであった。

しかし、新島襄はドイツ人医師ベルツを受けており、心の準備は出来ていた。新島襄にとっては、1人で思い悩む新島八重を観ている方が辛かった。

やがて、新島八重は重い口を開いて、難波医師から聞いた余命宣告を新島襄に伝えた。

それを聞いた新島襄は、「自分はすでに一身を神にささげているから、いつ召されてもかまわない。ただ、それが突然死なら、最愛の汝(新島八重)に暇乞いができない。何とも辛いが、これも御旨なら致し方ない」と話した。

新島襄が余命宣告を受けたことを切っ掛けに、新島八重は「恐怖の三島総監」豹変し、新島襄を恐れさせるようになる。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重ノ脂肪ヲ減スルノ法のあらすじとネタバレ」へ続く。

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