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実話-新島襄が百足屋で死亡

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄が死去」です。


このページは「実話-新島襄の最後の聖戦のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄が百足屋で死亡
新島襄が1888年(明治21年)11月に発表した「同志社大学の設立趣旨」は大きな反響を呼んでおり、同志社大学を設立する最大の好機が訪れていた。

既に国内の寄付金だけで6万円に達していたが、大学の設立にはまだ、多額の寄付が必要だった。

1889年(明治22年)10月12日、新島襄は関東方面で設立資金を集めるため、神戸から船に乗り、関東へと向かう。

新島襄の病状は悪化しており、医師ジョン・カッティング・ベリーから長期の旅行は禁止されていたが、新島襄は残りわずかな命を同志社大学の設立に費やすことを決めていた。

1889年(明治22年)11月28日、群馬県前橋市で遊説していた新島襄が腹痛を訴える。医師に診察してもらうと、新島襄は胃腸カタルという病気だった。

知らせを受けた新島八重は直ぐにでも群馬県へ駆けつけようとしたが、新島襄から手紙で「病気で寝ている母親を看病して欲しい」と頼まれたため、京都に残った。

余命宣告を受けていた新島襄は、何時死んでもいいように心の準備は出来ていたが、残される母「新島とみ」のことが気がかりであった。

1889年(明治22年)12月27日、東京で静養していた新島襄は徳富猪一郎(徳富蘇峰)の勧めにより、神奈川県大磯町で療養することにし、大磯海岸にほど近い旅館「百足屋(むかでや)」に宿を取る。

1890年(明治23年)1月17日、新島襄は療養中に再び、胃痛に襲われる。東京から駆けつけた医師・樫村清徳の診断によると、新島襄は腹膜炎であった。

医師・樫村清徳は診察を終えると、新島襄に「呼びたい方がいれば、今のうちに呼んでください」と告げた。新島襄に残された時間はわずかであった。

側に居た者が新島八重に電報を打とうとするが、新島襄が制した。自分よりも、年老いた母親「新島とみ」の看病を優先して欲しかったからだ。

1890年(明治23年)1月19日、弱っていく新島襄を心配した永岡喜八が、新島八重に新島襄の危篤を知らせる。

新島八重が百足屋に駆けつけたのは、1890年(明治23年)1月20日の夜だった。既に新島襄は憔悴しきっていた。

新島八重を見た新島襄は、「これほど八重さんに会いたいと思ったことは無かった」と喜んだ。

これを聞いた新島八重は「何という暖かいお言葉。私は死んでも、来世でも忘れません」と涙を流した。

しかし、新島襄は、京都に残された母「新島とみ」のことが気がかりであった。

■徳富健次郎(徳冨蘆花)の傷心
新島襄の危篤の電報を受けた教え子達が、続々と旅館「百足屋(むかでや)」へ駆け付けたが、徳富健次郎(徳冨蘆花)は現れなかった。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は同志社英学校時代に、山本久栄(やまもと・ひさえ)と恋に落ちたが、周囲の反対に遭い、破局した。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は、山本久栄(やまもと・ひさえ)との婚約を破棄して、京都を去るさい、山本久栄と面会したが、新島襄や新島八重が同席して席を外さなかったため、山本久栄と言葉を交わずに別れた。

山本久栄と破局してから2年が経っていたが、山本久栄と破局により、固い殻を被った亡霊となった徳富健次郎(徳冨蘆花)にとっては、まだ2年であった。

■新島八重の看病
1890年(明治23年)1月21日、新島襄は飯島八重・徳富猪一郎(徳富蘇峰)・小崎弘道の3人の枕元に呼ぶと、徳富猪一郎に筆記させ、30枚にも及ぶ遺言書を残した。

新島襄の最後の言葉は、「天を怨みず、人を咎めず。吉野山、花咲くころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲。同志社に対する私の感情は、いつもこの詩の通りである」であった。

新島襄の最後の言葉となる「天を怨みず、人を咎めず」は、論語(孔子)の一節だった。

新島襄は「国を発展させるには孔孟では駄目だ。教育とキリスト教が必要だ」と言い、「愚直1本の耶蘇坊主」と呼ばれていたが、最後の言葉は論語(孔子)の一節であった。

新島襄の最後のと言葉は、キリスト教とは相対する論語(孔子)の言葉だったためか、新島襄の最後の言葉「天を怨みず、人を咎めず」が紹介されることは少ない。

そして、新島襄の最後の言葉「吉野山、花咲くころの、朝な朝な、心にかかる、峰の白雲」は、佐川田昌俊の和歌で、新島襄が「自責の杖事件」の時にも生徒の前で詠んだ和歌である。

■新島八重の看病
ある日の夜、夜遅くまで看病していた新島八重は、新島襄の鼻に手を当てて、息をしているのかを確認する。

すると、気づいた新島襄は、「八重さん。私はまだ死なない。寝ないと八重さんが先に死んでしまうかもしれない。そうなると私が困るから、どうぞ寝てください」と、新島八重の体を心配した。

■新島襄が死ぬ
1890年(明治23年)1月23日の午後2時20分に新島襄は息を引き取った。新島襄は享年46歳であった。

新島襄は死ぬさい、新島八重に頭を抱えられており、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」と言い残して目を閉じたとされている。

■新島襄の結婚観
新島襄は生前、新島八重との結婚についてほとんど語らなかったが、病床で看護婦の「不破ゆう」に次のように語っている。おそらく、新島襄は他人に漏らした唯一の結婚についての本音である。

「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、と考えさせられるほど、性格においても相反している事を後になって発見して悩むことがある。しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」

■徳富猪一郎(徳富蘇峰)との和解
1890年(明治23年)1月23日、新島襄が死亡すると、同志社英学校時代に新島八重を「鵺(ぬえ)」などと批判していた徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、新島襄の枕元で、新島八重に和解を申し出た。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は「同志社以来、私は貴女に対して失礼な態度をとっていた。しかし、新島先生が逝かれたからには、貴女を新島先生の形見として接します」と言って新島八重に頭を下げ、2人は和解した。

その後、新島襄を納めた棺は京都にある自宅へ運ばれることになる。新島襄の棺を旅館「百足屋」から運び出すとき、新島八重は自分の頭や履き物ばかりを気にしていた。

このため、徳富猪一郎(徳富蘇峰)は和解したばかりであったが、「今後は誰も貴女の頭には注意しません。貴女の足にも注意しません」と言い、新島八重に激怒した。これが新島八重への最後の激怒であった。

その後、新島襄の棺は、開通したばかりの東海道線の列車で京都まで運ばれ、駅からは生徒が交代交代に棺を担いで寺町にある自宅まで運んだ。

■新島襄の葬式
質素倹約を旨とする新島襄は「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」と遺言していたが、新島襄の葬儀は1890年1月27日に同志社で行われ、葬儀には4000人が弔問に訪れた。

新島襄は父親が眠る南禅寺の墓に入る予定であったが、南禅寺が葬儀の前日に「キリスト教の葬儀をしない」「墓にキリスト教徒であることを記さない」などの条件を付けたため、新島襄は急遽、若王子にある京都市の共葬墓地に埋葬(土葬)されることになった。

若王子にある共葬墓地は無縁墓地で、後に、共葬墓地のうち148坪の使用が新島家・山本家に認められた。その後、148坪の墓地を同志社が管理することになり、現在の同志社墓地となった。

■新島襄の墓標の秘密
新島襄は「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」と遺言していたため、新島襄のお墓は木の墓標だったが、新島襄が死んでから1年後、木の墓標を撤去し、石の墓標に建て替えた。

新しく建てた新島襄の石の墓標は、漢字が間違えている。よく見ると、新島襄の「島」の漢字は横棒が一本足りない。

新島襄の墓標の文字は、徳富猪一郎(徳富蘇峰)と新島八重とが勝海舟に頼んで書いてもらったものだが、勝海舟は書き直さずに誤字のまま、墓標になっている。

しかし、学生らが1986年(昭和61年)に新島襄の2代目の墓標を倒して壊してしまったため、新島襄の縁のあるアメリカ・バーモント州ラットランド産の花崗岩を取り寄せて、3代目の墓標を作った(新島襄のお墓の倒壊事件)。

2012年の時点で新島襄の墓標は3代目だが、2代目の墓標の写真から勝海舟が書いた文字を複製したため、3代目の墓標も新島襄のお墓の文字は「島」の字が間違ったままになっている。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の死後-金森通倫と小崎弘道のあらすじとネタバレ」へ続く。

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