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新島八重(山本八重)は借金王

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島八重は借金王」です。


このページは「実話-新島八重と松本五平の約束のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重は借金王
新島襄は倹約家だったが、妻の新島八重は浪費家で金使いが荒いため、借金を背負っていた。だから、新島八重は借金王と揶揄されることがある。

新島襄は家族のために各地で不動産を所有していたのだが、新島襄の死後、新島八重が全て食いつぶしたうえ、新島八重は同志社に借金までしていた。

夫の新島襄は質素倹約を旨として生活していたが、妻の新島八重は舶来品が大好きで、ハイヒールや帽子や服などにお金を使っていた。

また、新島八重が奇妙奇天烈な着物を1夏に20着も買い込んだという逸話も残っていることからも、新島八重の金使いが荒さが分かる。

新島八重(山本八重)が金使いが荒いのは、金銭感覚が身についていなかったためではないか、とされている。その理由は、故郷の会津藩にあるようだ。

■会津藩士は数学が嫌い
江戸時代は「士農工商」という身分制度があった。さらに、会津藩は武士階級を11階級に分け、羽織紐の色や半襟の色によって階級が一目瞭然となるようになっており、特に身分意識が強かった。

山本覚馬が西洋式銃による鉄砲隊の編成を訴えたときも、会津藩の上級藩士は「鉄砲は身分の低い下級藩士の武器で、上級藩士は槍や刀で戦うものだ」と言い、山本覚馬を禁足処分(謹慎処分)としていた。

また、会津藩の家老は世襲制で、会津の名家9家の出身者しか家老になることは出来ず、身分の低い者は有能でも、重用されることはなかった。

鉄砲を嫌った事と同じように、会津藩の中級藩士以上の者は、「算術やお金は身分の低い商人のもの」として、算術を嫌い、お金を直接触ることを嫌った。

このため、会津藩の藩校「日新館」は「関流算術」という数学(算数)を教えていたが、関流算術を学ぼうとする会津藩士はほとんど居なかった。

後に東京帝国大学や京都帝国大学の総長となる会津藩士・山川健次郎が九九(かけ算)を覚えたのは16歳の時だったことから、会津藩士の算数の能力の低さがうかがえる。

■お金は身分の低い商人の物
また、会津藩の中級藩士以上の者は、「お金は身分の低い商人の物」として、お金を触ることを嫌い、子供に直接、お金を触ることを禁じていた。

会津藩士の子供が何かを購入する時は、お金を預かっている使用人が代金の支払いをすることになっており、会津藩士の子供がお金に触れることは無かった。

武家の女の子が1人で外出することは禁じられており、外出するときは常に使用人が一緒だったため、女の子が何かを買い求めるときは、使用人が金銭のやりとりをした。

一方、中級藩士以上の男の子が何かを購入するときは、店の人に財布ごと渡して、代金を支払った。

上級藩士の娘・日向ユキによると、日向ユキが教わったお金の支払い方はの1つは、「お金を多めに渡して、お釣りを受け取る」という方法だった。

そもそも、会津藩士の子供がお金を使う機会は、諏方神社のお祭り「授光祭」くらいだったため、お金を使う機会は年に数度あるか、ないかだった。

新島八重の父・山本権八は会津藩の「上士黒紐席」という上級藩士だったため、新島八重も数学的な知識や金銭感覚が身についていなかったのではないかとされている。

■家事をしない新島八重
新島襄は脱国した時に乗ったアメリカ船「ベルリン号」や「ワイルドローバー号」で水夫として働いていたため、新島八重と結婚後、料理や家事に抵抗なく手伝った。

しかし、新島八重は上級武士の子に生まれたので、結婚してもほとんど家事をしなかったため、家政婦を雇う必要があった。

新島八重は新島襄と結婚し、家賃3円の借家に住んでいたときも、年間36円の給料で使用人を雇って家事を任せていた。

その後に引っ越した新島邸には庭に畑があり、新島襄は農作業もしていたが、新島襄が「会津の人も青森で百姓をしているじゃないですか」と、新島八重を説得していることから、新島八重は農作業もしていなかったようだ。

ただ、新島八重が全く家事をしなかったというわけではなく、次第に家事をするようになり、半分くらいの家事はできるようになっていた。

新島襄の死後は、新島八重の性格が原因で家政婦も居なくなっているので、家政婦を雇う費用は必要無くなった。

■同志社の年金のネタバレ
新島八重が同志社から「同志社の年金」をもらうようになったのは、新島襄が死んでから17年後の1907年(明治40年)のことで、新島襄が死んだ直後はどのように生活費を稼いでいたのかは分からない。

新島八重が1907年(明治40年)からもらうようになる「同志社の年金」をネタバレする前に、新島襄が受け取っていた給料について紹介しておく。

新島襄は同志社を設立し、同志社の総長(社長)を務めていたため、同志社から給料を受け取っていたと思う人もいるかも知れないが、新島襄は同志社から給料は貰っていない。

新島襄は、アメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」に所属する準教師なので、給料はアメリカン・ボードから受け取っていた。

同志社で教師を務めた外国人も皆、アメリカン・ボードに所属する宣教師なので、全ての給料はアメリカン・ボードが払っており、同志社は一切給料を払っていない。

さらに、新島襄はアメリカのハーディー夫婦からも給料(個人的な金銭援助)を受け取っていたため、準宣教師という身分でありながら、宣教師よりも多額の給料を受け取っていた。

しかし、新島襄の死後はアメリカンボードからの給料も、ハーディー夫婦からの給料(資金援助)も無くなっている。

新島八重が新島襄の死後、どのように生計を立てていたのかは分からないが、新島襄の遺産を食いつぶし、借金まで背負うようになっている。

新島八重が新島襄の財産を食いつぶし、借金を背負うようにまでなった理由は新島宗竹にあるようだ。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島宗竹の正体は新島八重のあらすじとネタバレ」へ続く。

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