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新島宗竹の正体は新島八重

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島宗竹の正体は新島八重」です。


このページは「新島八重(山本八重)は借金王のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄の遺産を食いつぶす新島八重
新島襄は生前、家族のために方々に土地を購入していたが、新島八重が新島襄の遺産を食いつぶし、1907年(明治40年)には新島襄の遺産は新島邸だけとなっていた。

これを見かねた徳富猪一郎(徳富蘇峰)ら有志が、新島邸を守るため、新島八重から新島邸を買い取るように同志社へ働きかけ、同志社が新島邸を購入することになった。

名目上は、新島八重が新島邸を同志社に寄付し、同志社は寄付に感謝して新島八重が死ぬまで毎年600円を支給したことになっているが、事実上は、同志社が新島八重から新島邸を守るに買い取ったのである。

また、こうして新島八重が同志社から受け取るようになった年600円のお金は、「同志社の年金」と呼ばれることもある。

■新島八重と土倉庄三郎の植林
新島襄は、金遣いの荒い新島八重が遺産を食いつぶすことを想定していたのか、余命宣告を受けると「新島八重に乞食をさせたくない」として、「大和の山林王」と呼ばれる土倉庄三郎にマッチ棒用の植林の共同出資を依頼している。

土倉庄三郎は新島襄の依頼を受けて、マッチ棒用の植林を行ったが、植林のその後については詳しい事が分からず、新島八重が配当を受け取っていたかどうかは不明である。

■新島八重の借金の原因は新島宗竹
新島八重は死ぬまで新島邸に住む条件で新島邸を寄付しており、寄付後も新島邸に住んだ。

そして、十分な生活が出来るだけのお金(年間600円)を同志社から貰っていたいたが、それでも直ぐにお金を使い果たしてしまい、度々、同志社へ借金を申し込んでいる。

新島八重のお金の使い道は、正確には分からないが、新島八重は茶道の道具に相当のお金をつぎ込んでいたようだ。

新島八重は女学校「新英学級及女紅場」で働いていたとき、新英学級及女紅場でお茶を教えていた、裏千家13代の千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)と知り合った。

これが縁で、新島八重は新島襄が死んでから4年後の1894年(明治27年)に13代千宗室(円能斎)に師事し、翌年には「茶通箱」(初級)の免状を受け、1890年(明治23年)には茶名「新島宗竹(にいじま・そうちく)」を授かっている。

こうして、新島襄の死後に本格的に茶道を始めて以降、新島八重は茶器や道具に相当なお金をつぎ込むようになっており、茶道の道具が新島八重の借金の原因だとされている。

■新島八重の借金に困る同志社
新島八重が再三にわたり、同志社に借金を申し込みに来るため、困った同志社の理事・大澤善助は、一計を案じ、新島八重に「娘にお茶を教えてください」と頼み、茶道の報酬として毎月5円の月謝を払うことにした。

こうして新島八重は自宅で茶道教室を開くこととなり、大澤善助の孫娘の武間冨貴(ぶま・ふき)らに茶道を教えるようになる。

■新島八重の茶名は新島宗竹(にいじま・そうちく)
新島襄の死後、本格的に茶道を始めた新島八重は、裏千家13代の千宗室(円能斎)に師事して、1890年(明治23年)には茶名「新島宗竹」を許され、女性では最高位にあたる裏千家の師範にまで上り詰めている。

新島八重に茶道の才能があったのは、新島八重に茶道家の血が流れているからかもしれない。

会津藩には、初代藩主・保科正之に招かれて会津藩の初代・茶道頭を勤めた遠州流茶道の茶人・山本道珍という人物がいる。

会津藩の初代・茶道頭の山本道珍が、会津藩での茶道の祖であり、会津での山本家の始まりである。

そして、新島八重(山本八重)の山本家は、山本道珍の次男の流れをくむ分家なので、新島八重の中には茶道家・山本道珍の血が流れているのだ。

■新島八重と茶室「寂中庵」
同志社の理事・大澤善助から「娘に茶道を教えて欲しい」と頼まれた新島八重は、新島邸の1室を改装し、茶室「寂中庵」を開いて、女性に茶を教えるようになった。

茶室「寂中庵」は、茶道の言葉「和敬清寂(わけいせいじゃく)」から「寂」の1字を取り、13代千宗室(円能斎)が名付けたものである。「寂」には「動じない心」という意味があるのだとされている。

そして、新島邸の茶室にある「寂中庵」の書は、1912年(大正元年)に13代千宗室(円能斎)が書いた物である。

明治維新に伴う大名家の廃止などにより、茶道は廃れていったが、新島八重が茶室「寂中庵」を開き、女性に茶道を教え始めたため、裏千家は女性の間に広まっていった。

また、新島宗竹(新島八重)は毎月、第1・第2・第3土曜日の午前中に茶会を開いて釜を立てるようになり、九鬼家を初め、色々な人を招いて交流を図るようになった。

なお、亭主の新島宗竹(新島八重)は太っていたため、「肥満刀自(ひまんとじ)」と呼ばれることもあった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重の養子(養女)の甘粕初子と広津友信」へ続く。

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