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実話-新島八重の養子(養女)の甘粕初子と広津友信

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重の養子(養女)の甘粕初子と広津友信」です。


このページは「新島宗竹の正体は新島八重のあらしじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重の養子(養女)の甘粕初子
2どの結婚をした新島八重(山本八重)は、いずれも子供を儲けなかったが、2番目の新島襄の死後に1人の養子と2人の養女を迎えた。そのうちの1人が甘粕初子(あまかす・はつこ)である。

(注釈:甘粕については「甘糟」と表記する場合もあるので、甘糟初子と表記する場合もある。)

新島八重は、新島襄が死んでから10年後の1900年(明治33年)、新島八重が55歳の時に、米沢藩の名家・甘粕家から甘粕初子(あまかす・はつこ)を養女として迎えた。

甘粕初子は、上杉謙信の名将として有名な甘粕景継(あまかす・かげつぐ)の子孫で、甘粕初子の父親は甘粕家・本家の甘粕鷲郎(あまかす・しゅうろう)である。

一方、甘粕初子の母は、会津藩の公用方(外交担当)として戊辰戦争で活躍した手代木直右衛門の次女・手代木中枝(てしろぎ・なかえ)である。

手代木直右衛門は、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎の2人を暗殺した犯人とされている佐々木只三郎の実兄である。

■新島襄と甘粕家
地方教育の重要性を訴えていた新島襄は、1882年(明治15年)に新島八重と共に、故郷の安中と会津とを訪れた後、山形県まで足を伸ばしており、1882年(明治15年)8月21日に甘粕三郎の自宅を訪問している。

(注釈:甘粕三郎は、甘粕初子の父親・甘粕鷲郎の弟で、後に甘粕初子の養父となる人物である。)

この旅は地方に教育を普及させる目的であり、キリスト教の布教とは無関係だが、地方に教育をもたらすということは、地方にキリスト教を普及させるということと同じ意味なので、キリスト教を東北に布教する拠点となる場所を探す旅でもあった。

新島襄は、1882年(明治15年)7月3日に徳富猪一郎(徳富蘇峰)や伊勢時雄らを伴って京都と出発し、徒歩で中山街道を進み、道中に立ち寄った長野県の「寝覚めの床」で蕎麦の大食い対決をするなどしながら、故郷の安中を目指した。

そして、新島襄は1882年(明治15年)7月11日に安中に到着し、海路を使って先に安中に到着していた新島八重と合流する。

そして、安中での演説などを終えた新島襄らは1882年(明治15年)7月27日に新島八重の故郷である会津へ入った。

その後、新島襄は伊勢時雄を伴って、1882年(明治15年)8月1日に会津を出て山形県へ向かい、1882年(明治15年)8月21日に甘粕三郎の自宅を訪問した。このとき、新島八重は新島襄と別れ、会津に残っている。

こうして、1882年(明治15年)8月21日に山形県にある甘粕三郎の自宅を訪れた新島襄は、甘粕三郎や甘粕春子から地元の風土などを詳しく訊いた。

さらに、1886年(明治19年)にも、新島襄は新島八重を伴って山形県を訪れ、甘粕三郎と会っている。

しかし、結果的に新島襄の山形県訪問は実らず、同志社の東北進出の拠点となる学校は、1886年(明治19年)10月21日に宮城県仙台市で「宮城英学校」として開校した。

そして、この宮城英学校は仙台東華学校となり、新島襄が仙台東華学校の初代校長に就任している。

また、この時の会津訪問が切っ掛けとなり、1891年(明治24年)に福島県で、東北へキリスト教を伝道する拠点となる会津若松教会が設立されることになる。

■新島八重と養女・甘粕初子
新島八重が後の養女となる甘粕初子に会ったのは、新島襄が最初に甘粕三郎の自宅を訪問した翌年の1883年(明治16年)のことである。

甘粕初子の父・甘粕鷲郎は慶應義塾を経て大学を卒業した後、教師の道へと進んだ。

そして、父・甘粕鷲郎が神戸で勤務していた1883年(明治16年)に、新島八重は父・甘粕鷲郎と会っている。このとき、新島八重は3歳の甘粕初子と会ったとされている。

■新島八重と養女・甘粕初子の接点
甘粕初子には会津藩士の血が流れている、甘粕初子の母方の祖父は、会津藩士の手代木直右衛門である。

手代木直右衛門は公用方として活躍し、戊申戦争時には会津藩士・秋月悌次郎とともに米沢藩を訪れ、会津藩の降伏の仲介を依頼した人物である。

また、手代木直右衛門は、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎の2人を暗殺した犯人として有名な佐々木只三郎(京都見廻組の所属)の実兄である。

新島八重(山本八重)も若松城籠城戦で7連発元込め式スペンサー銃を手にして新政府軍と戦っているため、新島八重と手代木直右衛門の間に面識があっても不思議では無いが、新島八重と手代木直右衛門の具体的な関係は分らない。

ちなみに、新島八重(山本八重)が生まれたのが1845年で、手代木直右衛門が生まれたのは1826年だから、新島八重の方が年下である。

また、会津藩と仙台藩は交流があり、新島八重(山本八重)は会津若松城の落城後、1年ほど山形県米沢市へ出稼ぎし、米沢藩士・内藤新一郎の世話になっているが、新島八重と米沢藩・甘粕家との間に交流があったかは不明である。

新島八重と甘粕初子の接点は不明だが、2人とも会津藩士の血が流れているという点が共通している。

■新島八重が甘粕初子を養女にする
甘粕初子は1881年(明治14年)に父・甘粕鷲郎と母・手代木中枝の長女として生まれたが、1891年(明治24年)に母・手代木中枝が死去し、翌年の1892年(明治25年)には父・甘粕鷲郎も死去した。


甘粕家の本家の父・甘粕鷲郎が死去したため、父・甘粕鷲郎の弟・甘粕三郎が甘粕家の本家を継ぎ、甘粕初子と妹・甘粕のぶ子の2人は甘粕三郎の養女となった。

そして、新島八重の申し出により、甘粕初子は1900年(明治33年)に新島八重の養女となった。このとき、新島八重は55歳で、甘粕初子は19歳だった。

新島八重が甘粕初子を養女に迎えた理由は不明だが、弟・甘粕三郎には実子もおり、甘粕家はそれほど裕福ではなかったため、新島八重は甘粕初子を養女に迎えたのではないかとされている。

■甘粕初子と広津友信が結婚
1900年(明治33年)に新島八重の養子となった甘粕初子は、1年後の1901年(明治34年)に同志社の広津友信と結婚した。

広津友信は晩年の新島襄が最も信頼していた人物で、新島襄の死後は同志社の社長心得をしていた人物である。

広津友信は福岡県出身で、同志社英学校の生徒だった1889年(明治22年)に在日宣教師グリーンの言動に反発して、複数名の生徒と一緒に同志社を退学(同盟退学)する事件を起こした。

(注釈:広津友信らの同盟退学は、富健次郎ら2年上級組が同盟休学した「自責の杖事件」とは別の事件である。自責の杖は1880年に起った事件なので、広津友信らの同盟退学は自責の杖から9年後の出来事である。)

しかし、広津友信は新島襄の説得に応じて同志社英学校へ復学し、同志社教会の会員として新島襄から厚い信頼を得てるようになる。

そして、広津友信は同志社英学校を卒業すると、新島襄の念願であった新潟伝道を任され、新潟教会でキリスト教の布教に努め、晩年の新島襄を支えた。

新島襄は、神奈川県大磯町にある旅館「百足屋」で死ぬさい、新島八重に「広津はまだか、広津はまだか」と何度も尋ね、広津友信の到着を待ち詫びていたほど、広津友信に信頼を置いていた。

新島襄の死後、広津友信はアメリカへ留学してハーバード大学などで学び、帰国後は同志社に復帰し、社長心得を務めていた。

そして、広津友信は、新島八重の養女・甘粕初子と結婚して子供「旭」を儲けた。新島八重にとっては義理の孫の誕生である。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島八重の孫・新島襄治のあらすじとネタバレ」へ続く。

スポンサーサイト実話-新島八重の養子(養女)の甘粕初子と広津友信へのコメント

規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。

間違って書かれているところが何点か見受けられます。

伊藤哲也 : 2012年12月02日(日)

ご指摘ありがとうございます。新資料を反映しました。なお、川崎正之助の新資料が発見された件についても、時間ができ次第、対応する予定です。

管理人 : 2013年01月22日(火)

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