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小田時栄(おだ・ときえ)の不祥事

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜」の番外編「小田時栄(おだ・ときえ)の不祥事」のあらすじとネタバレです。


実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレは『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■小田時栄の不祥事
1871年(明治4年)10月、山本八重が京都府の顧問となった兄・山本覚馬を頼って京都へ来たとき、既に山本覚馬は18歳の愛人・小田時栄(おだ・ときえ)と暮らしていた。

通説では、山本八重が山本覚馬の元を訪れたとき、小田時栄は娘の小田久栄(おだ・ひさえ)を出産している。

しかし、小田久栄の誕生日に関する記録は残っていないため、山本八重が京都を訪れたとき、娘・小田久栄が生まれていたのか、母体の中だったのかは不明である。

ただ、小田久栄は1871年生まれで、山本八重が京都に来た年に生まれた事は間違いない。

今回は、山本覚馬の妻となる愛人・小田時栄の不祥事について、小田時栄と山本覚馬のあらすじとネタバレを交えて紹介する。

■小田時栄と山本覚馬
会津藩主・松平容保が京都守護職に就任した事にともない、山本覚馬は会津に妻「山本うら」と娘「山本みね」を残して京都勤務に就いた。

会津藩は「鉄砲は下級武士の武器。上級藩士は槍や刀で戦うものだ」として、鉄砲を受け入れていなかったが、1864年に起きた「蛤御門の変」での山本覚馬の大砲隊が活躍したことを受け、会津藩は洋式銃を認め始め、山本覚馬に洋式銃の調達を命じた。

「蛤御門の変」で目を負傷して以降、視力を失いつつあった山本覚馬は、洋式銃の調達で長崎を訪れたさい、オランダ人医師ボードインに診察を受けたたところ、失明は時間の問題との診断が下った。

山本覚馬が失明する原因は「蛤御門の変で目を負傷したから」とも「大砲や鉄砲を撃つときの煙硝で目を痛めたから」とも言われている。

さて、会津藩で洋式銃が認められるようになったが、医師ボードインから失明を宣告された山本覚馬は、京都へ戻っても失意のどん底に落ちていた。

すると、山本覚馬を心配した小田勝太郎は、13歳の妹・小田時栄に山本覚馬の世話係を命じた。こうして、小田時栄は山本覚馬の世話をするようになった。

1868年に「鳥羽・伏見の戦い」が起きたとき、京都で療養していた山本覚馬は薩摩兵に捕まり、薩摩藩邸に幽閉される。

小田時栄は薩摩藩の許可を得て幽閉されている山本覚馬の世話を続けたが、山本覚馬は1年間にわたる幽閉生活で完全に失明したうえ、脊髄を痛めて歩けなくなってしまった。

1869年(明治2年)、戊辰戦争が終わり、山本覚馬は幽閉から釈放されると、京都で小田時栄と同棲を始める。このとき、山本覚馬は42歳で、小田時栄は16歳であった。

1871年(明治4年)、山本覚馬は京都府の顧問となり、新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)へと引っ越す。山本覚馬は新門辰五郎邸でも小田時栄と同棲をしている。

そして、新門辰五郎邸へ引っ越して生活が落ち着き始めた1871年(明治4年)10月に、母・山本佐久と妹・山本八重と娘「山本みね」の3人が山本覚馬を頼って京都へやってきた。

山本覚馬は会津に妻「山本うら」を残していたが、妻「山本うら」は山本八重らと一緒に京都へは向かわず、離婚を望んで会津に残った。

妻「山本うら」が離婚を望んだ理由については、定説では「山本覚馬が京都で愛人とくらしているという噂を耳にしたため、離婚を望んで会津に残った」とされている。しかし、一切資料が存在しないので、「山本うら」が離婚を望んだ理由は分からない。

先にも述べたように、山本八重らが京都へ来たとき、小田時栄は山本覚馬の娘・小田久栄を妊娠していたか、出産しており、山本覚馬は会津に残った妻「山本うら」と離婚し、愛人の小田時栄と結婚したのである。

山本覚馬は完全に失明しており、足も不自由で歩行も困難だった。小田時栄は山本覚馬の目となり、耳となり、献身的に尽くしたが、不祥事を起こして新島八重に(山本八重)に不祥事を糾弾されることになる。

では、その不祥事とは何か。小田時栄の不祥事について、あららすじとネタバレを紹介する。

■小田時栄の不祥事
1885年(明治18年)、妻の小田時栄が体調を崩したため、山本覚馬は医師ジョン・カッティング・ベリーに往診を頼んだ。このとき、小田時栄は31歳で、山本覚馬は57歳であった。

山本家を訪れて小田時栄を診察した医師ジョン・カッティング・ベリーが、帰り際に玄関で、「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げる。

しかし、山本覚馬が「覚えが無い」と驚いたため、小田時栄の不倫が発覚したのである。

山本覚馬が小田時栄に不倫を問いただすと、小田時栄が口にしたのは、同志社英学校に入学させるために山本覚馬らが会津から招いた18歳の青年の名前だった。

小田時栄の不祥事は親族の間でも問題となったが、夫の山本覚馬が小田時栄を許したため、今回の不祥事は穏便に収まろうとしていた。

しかし、妹の新島八重(山本八重)が「臭いものに蓋をしてはいけない」と言い、小田時栄の不祥事を糾弾し、ついには小田時栄を離婚させて追い出してしまったのである。

こうして、小田時栄は1886年(明治19年)2月19日に夫・山本覚馬と離婚し、山本家を去ったのである。

小田時栄が生んだ娘・小田久栄は山本覚馬に引き取られた。新島八重(山本八重)は小田久栄を管理し、小田時栄と会うことを禁じたという。

■小田時栄の不祥事の真偽
小田時栄が不倫相手の子を妊娠したというエピソードは、同志社英学校を中退した徳富健次郎(徳冨蘆花)の自伝的小説「黒い眼と茶色の目」で紹介されたものである。

ただ、徳富健次郎(徳冨蘆花)は、1880年(明治13年)に起きた新島襄による「自責の杖事件」の後、同志社英学校を退学しており、小田時栄の不祥事が発覚した1885年(明治18年)には京都に居なかった。

徳富健次郎(徳冨蘆花)は、山本家親族からの伝聞を元に小田時栄の不倫事件を自伝的小説「黒い眼と茶色の目」に書いており、不倫事件が本当なのか作り話なのかは分からない。

ただ、小田時栄が不祥事を起こしたため、新島八重(山本八重)が小田時栄を離婚させて山本家から追い出したことは事実である。

参考文献「小田時栄(おだ・ときえ)の生涯

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