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カール・レーマンとジョン・ヘンリー・スネル

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重(新島八重)を実話で紹介する「実話-山本八重の桜」の番外編「カール・レーマンとジョン・ヘンリー・スネル」です。


今回は、会津藩に関わった2人の武器商人「カール・レーマン」と「ジョン・ヘンリー・スネル」を紹介します。

■武器商人カール・レーマン
カール・レーマンは長崎に滞在するドイツ出身の武器商人で、1867年(慶応3年)に、会津藩士の山本覚馬・中沢帯刀にシュンドナールド・ゲベール銃(ドライゼ銃)1300挺を販売した。

1865年4月にアメリカの南北戦争が終結したため、大量の武器が不要となった。その不要となった武器が日本に流れ込んでおり、武器商人は、洋式銃の知識が日本人に旧式銃や不良品を売りつけていた。

洋式銃の知識の無い日本人は、旧式銃や不良品をつかまされていたが、会津藩士・本覚馬はそのような旧式銃には目も触れず、最新式のシュンドナールド・ゲベール銃(ドライゼ銃)1300挺を注文した。

このとき、カール・レーマンは、山本覚馬の洋式銃に対する知識の深さに感服し、カール・レーマンと山本覚馬は交流を深めた。

山本覚馬の妹・山本八重の代名詞となるスペンサー銃は、山本覚馬が長崎でカール・レーマンから入手し、会津の山本八重に送った物である。

さて、山本覚馬がカール・レーマンに注文した1300挺のうち、300艇は桑名藩の代理注文で、桑名藩の注文300艇は在庫があったが、会津藩の注文1000艇は在庫が無かったため、カール・レーマンは銃を調達するため、ドイツへと向かった。

しかし、カール・レーマンは、1869年8月6日(明治2年6月29日)に神戸へ戻ってくると、既に会津藩は新政府に降服しており、戊辰戦争も終わっていた。

カール・レーマンが調達してきたシュンドナールド・ゲベール銃は明治政府が買い取ったが、会津藩に代金不払いがあったため、カール・レーマンは会津藩(斗南藩)を相手取り、裁判を起こした。

なお、戊申戦争後の会津藩(斗南藩)は何件かの訴訟を起こされており、山本八重の夫・川崎尚之助も米購入に関するトラブルで訴えられている。

(釈:川崎尚之助の裁判のあらすじとネタバレは「山本八重と川崎尚之助の再会」をご覧ください。)

■ジョン・ヘンリー・スネル
一方、カールレーマンにシュンドナールド・ゲベール銃を注文した会津藩は、洋式銃を注文した半年後の1868年1月27日(慶応4年1月3日)に鳥羽伏見の戦いを起こし、戊辰戦争へと突入していた。

山本覚馬がカール・レーマンに注文した洋式銃は戊辰戦争に間に合わなかったが、会津藩は長岡藩(新潟県)の紹介により、自称ドイツ商のスネル兄弟と知り合い、弟エドワルド・スネルから洋式銃を調達した。

戊辰戦争で東北諸藩に武器を販売したのが、弟エドワルド・スネルで、長岡藩にガトリング砲を販売したのも、弟エドワルド・スネルである。

さらに、会津藩はスネル兄弟の兄ジョン・ヘンリー・スネルを軍事顧問に招き、平松武兵衛の名前を与えて重用した。

弟エドワルド・スネルは香港や上海から新潟港へ武器弾薬を輸入し、新潟港が会津藩ほか、東北諸藩で結成する奥羽越列藩同盟の武器弾薬の補給路となる。

しかし、新潟港は簡単に新政府軍の手に落ちてしまい、会津藩や奥羽越列藩同盟の武器弾薬の補給路は断たれ、会津藩は敗北への一途をたどった。

会津藩が新政府軍に降服したさい、兄ジョン・ヘンリー・スネルは会津藩の子弟を連れて、ゴールドラッシュに沸くアメリカへ移った。

そして、ジョン・ヘンリー・スネルはカリフォルニア州で農園「若松コロニー」を開いたが、若松井コロニーは農作物の栽培に失敗し、1年ほどでつぶれてしまった。

(注釈:若松コロニーのあらすじとネタバレ「伊藤おけいと桜井松之助の若松コロニー物語」をご覧ください。)

■カール・レーマンと山本覚馬
戊申戦争中に薩摩藩邸で幽閉されていた会津藩士・山本覚馬は、戊申戦争が終わると、釈放され、16歳の少女・小田時栄と同棲を始めた。

山本覚馬は幽閉中に、近代国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白(管見)」が新政府関係者に認められており、山本覚馬は釈放後に京都府の顧問に就任する。

京都は、1864年8月(元治元年7月)に起こった「蛤御門の変(禁門の変)」で発生した大火事(どんどん焼け)によって衰退しており、京都府の顧問となった山本覚馬は京都府の復興に力を尽くすことになる。

(注釈:この大火事は、山本覚馬が放った大砲が原因ともされており、会津藩は京都に恨まれている。)

このころ、カール・レーマンは大阪で貿易会社「レーマン・ハルトマン商会」を開いていた。

そして、京都顧問となった山本覚馬が、京都を復興するために協力を求めたのが、カール・レーマンだった。

山本覚馬の才能を認めていたカール・レーマンは、山本覚馬に協力し、外国人医師や外国人教師を京都府に紹介するなどして、様々な分野で京都の復興に貢献した。

カール・レーマンの弟ルドルフ・レーマンはレーマン・ハルトマン商会で造船の製造に当たっていたが、山本覚馬に協力して京都でドイツ語の教師となった。

この弟ルドルフ・レーマンは後に、日本初の和独辞典「和獨對譯字林」の制作に携わった。

一方、山本覚馬はカール・レーマンを通じて輪転印刷機を輸入し、英語のパンフレットを作成して外国人を招き、第2回・京都博覧会を成功させた。

この輪転印刷機で印刷する英語のパンフレットの文字を並べたのが、山本覚馬の妹で、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重である。

山本八重(新島八重)の生涯を描いた実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレは「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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