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新島八重(山本八重)が新島襄と結婚した理由

HNK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重の実話を紹介する「実話・山本八重の桜」のあらすじとネタバレの番外編「新島八重(山本八重)が新島襄と結婚した理由」です。


■新島八重が新島襄と結婚した理由
以前に「山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由」を書いたので、今度は山本八重(新島八重)が新島襄と結婚した理由について紹介する。

(以前に紹介した「山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由」については、「山本八重が川崎尚之助と結婚した理由、離婚した理由」をご覧ください。)

さて、山本八重は1人目の夫・川崎正之助の死後、新島襄と結婚する。新島襄が山本八重と結婚した理由は「病気」だったが、山本八重が新島襄と結婚しようと思った理由は分からない。山本八重が新島襄との結婚について語った記録が残っていないのだ。

■新島襄が結婚しようと思った理由
新島襄が結婚をしようと思った理由は「新島襄が病弱だったから」である。新島襄は子供の頃に麻疹(はしか)に感染して以降、様々な病気に悩まされた。新島襄は自分の事を「病魔の囚人」と言った程である。

新島襄は小さい頃から病気に苦しみ、脱獄してアメリカへ渡ってからも病気に苦しみ、岩倉使節団に参加した時も病気に苦しんだ。

その後、新島襄はアメリカの宗教団体「アメリカンボード」の準宣教師として日本へ帰国する。新島襄は帰国したとき、父親に「日本で私の伴侶を探すのは難しい」という趣旨の手紙を送っており、結婚を諦めていた。

しかし、新島襄は、最初の赴任地の大阪府で、病気が悪化したため、「布教活動のためには良き伴侶が必要だ」と思うようになった。

そのようななか、大阪府知事・渡辺昇がキリスト教学校の建設を拒否したため、新島襄は京都府にキリスト教学校の建設することになり、その京都で京都府顧問の山本覚馬とその妹・山本八重と出会った。

新島襄は、1度目に宣教師ゴードンの宿で山本八重と会った時は新島八重に何の意識もしていなかったが、2度目に山本覚馬の家で井戸の上に座っている山本八重を見た時から山本八重の事を意識するようになり、「山本八重が承諾すれば結婚しよう」と考えるようになった。

山本八重は宣教師ゴードンから聖書を習っていたが、その後、宣教師ゴードンが大阪に帰ったため、新島襄から聖書を習うようになる。

新島襄は準宣教師なので、結婚相手の条件はクリスチャンだった。山本八重はクリスチャンでは無かったが、「山本八重が回心したという確信が持てた」として、新島襄は山本八重と早々に婚約した。

そして、山本八重は結婚式の前日に洗礼を受け、翌日に2人は結婚した。新島襄は夏に山本八重と出会い、同年10月には婚約し、翌年1月に結婚した。出会いから結婚まで、わずか半年のスピード婚であった。

■新島襄の結婚動機
NHK大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄が病気に悩まされているという描写が無いようなので、どうなるかわからないが、実話では、結婚を諦めていた新島襄が結婚しようと思った理由は「病気」である。

結婚後、新島襄は体調が良くなり、「体調が良くなった」と喜んでおり、新島八重(山本八重)は「私と結婚して目的は果たせたでしょ」と言っている。

新島襄研究の第1人者は「京都で配偶者を選ぶには、八重以外に選択肢は無かったも同然です」と解説している。

山本八重が新島襄と出会ったから、結婚するまでの半年間は謎に包まれており、山本八重が新島襄と結婚した理由は分からないが、山本八重が新島襄から聖書を習っているときに親密になったと思われる。

一説によると、同志社の設立に貢献した山本八重の兄・山本覚馬が、山本八重と新島襄の2人を結婚させた、とも言われている。

■新島八重と新島襄の結婚生活
新島襄が仏教の盛んな京都でキリスト教学校を設立しようとしたため、新島家にはキリスト教関係者以外は寄りつかなかった。

また、男尊女卑の根強い京都で、新島襄は山本八重を「八重さん」と呼び、新島八重は新島襄を「襄」と呼び捨てたので新島八重は同志社の生徒・徳富猪一郎(徳富蘇峰)などから嫌われた。

徳富猪一郎(徳富蘇峰)は新島八重を「目尻の下がったテラテラと光る赤い顔と相撲取りのような体」「ネチネチとした会津弁」「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性」と批判した。

また、当時は夫が人前で妻の話をすることが無かったため、人前で新島八重の事を話す新島襄は、同志社の生徒から気持ち悪がられていた。

しかし、新島八重も新島襄も、他人に何を言われても気にせず、仲良く暮らしていた。

■新島襄と新島八重の性格
新島襄は怒りっぽい性格で、新島八重に「怒りっぽいのは父親からの遺伝なので勘弁してくれ」と謝罪している。

一方、新島襄は強情な性格で、山本家で不祥事があったとき、みんなは兄・山本覚馬の妻・小田時栄を許したが、新島八重は小田時栄の不祥事を許さず、小田時栄を離婚させて山本家から追い出した。

(小田時栄の不祥事については「小田時栄(おだ・ときえ)の不祥事」をご覧ください。)

このとき、新島襄は新島八重に「お前の強情さはかねがね兄さん(山本覚馬)や槇村さんから聞いてはいたが、こんなに酷いとは思わなかった。私はとんだしもうたことをしてしもた」と笑った。

新島襄と新島八重の2人は性格が全く一致しなかったが、新島襄は「最も仲の良き夫婦は、性質の異なる者にあり」と言っており、幸せな結婚生活を送った。

■新島襄は結婚の感想
新島襄は結婚生活に誰にも本音を話さなかったが、新島襄は病床で看護婦の「不破ゆう」に「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、と考えさせられるほど、性格においても相反している事を後になって発見して悩むことがある。しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」と話した。

これが新島襄が唯一、新島八重との結婚について漏らした本音・本心だとされている。

■新島襄の死後
新島八重は気性が激しかったため、新島襄の死後は家政婦が居着かず、新島邸で1人暮らしを続けた。そして、新島八重は、同志社の経営には口を出さなくなり、赤十字の活動を始めた。

新島襄は早くから余命宣告を受けており、新島襄が死んでも金遣いの荒い新島八重が路頭に迷わないよう、新島八重のために投資や土地の購入をしていた。

しかし、新島襄の死後、新島八重は新島襄が方々に残した土地を食いつぶし、残る遺産は新島邸だけとなった。

そこで、新島襄の教え子・徳富猪一郎(徳富蘇峰)らが、新島八重から新島邸を守るため、同志社に新島邸の保護を働きかけ、同志社が新島邸を買い取った。

こうして、新島八重は同志社からお金を貰いながら、新島邸に住み続けたが、それでもお金が足りなくなり、同志社に借金を申し込んだ。

困った同志社の理事・大澤善助は「月謝を払うので、娘に茶道を教えて欲しい」と新島八重に頼み、新島八重は新島邸で女学生に茶道を教えるようになった。

新島八重は仏教帰依疑惑などで晩年まで世間を騒がせたが、同志社の生徒から「新島のおばあちゃん」と慕われながら、1932年6月14日に死んだ。享年86歳だった。

実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレの目次は「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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