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井口兵助(村田吉次)のwiki

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎編「井口兵助(村田吉次)のwiki」です。


■井口兵助(村田吉次)のwiki
井口兵助(村田吉次)は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、黒田家の問題児である。また、黒田家でも数少ない朱具足を許された武将である。

井口兵助(村田吉次)の本名は「井口吉次」。幼名は「井口弥一之助」と言い、元服後「井口兵助」を名乗る。その後、黒田官兵衛の命令によって「田村」姓へと改めて「村田吉次」と名乗り、晩年は「村田出羽」と名乗った。

■井口兵助の生涯
井口兵助は永禄8年(1565年)に、父・井口与次右衛門(井口与二右衛門)の末子として播磨(兵庫県)で生まれた。

井口家は播磨・赤松家の分家で、代々、播磨国に領土を持ち、城主を務める一族であった。

しかし、父・井口与次右衛門の時代に、井口家と赤松家との関係が悪化。井口一族は戦いを嫌って城を出て、兵庫県姫路市御国野町御着へと移り住み、浪人となった。

城を出た父・井口与次右衛門は、兵庫県姫路市御国野町御着で帰農し、広い田畑も屋敷も持つようになり、数十人の家人を使う豪農にまで発展した。

しかし、父・井口与次右衛門の子供は武士の道を選び、井口猪之助・井口六太夫・井口甚十郎の兄弟3人が姫路城の城主・黒田官兵衛に仕えた。

井口3兄弟は武勇に優れ、井口猪之助は黒田官兵衛の留守に城の守将を任される程だったが、いずれも戦死した。

井口3兄弟の死後、黒田官兵衛は井口家を訪れ、父・井口与次右衛門に「兄弟3人は皆、私のために討ち死にしたこと、誠に不憫である。三兄弟の忠死を忘れないため、末子の弥一之助を私に預けて欲しい」と頼んだ。

しかし、父・井口与次右衛門は「我が子3人は討ち死にして、もう末子の弥一之助が1人生き残るのみ。弥一之助が幼いのは茶湯子(年をとってから出来た子)だからです。預けるはずがないでしょう」と断った。

すると、黒田官兵衛は、まだ7~8歳の末子・井口弥一之助にお菓子を与え、耳元で「汝は私の元に来なさい。父親の元に居るより、たくさん、良いことがある。将来も良いことばかりだ。悪い事は何も無い」とささやいて、丁寧に騙した。

井口弥一之助は幼いので耳は小さかったが、どちらに利益があるかを悟り、父・井口与次右衛門よりも黒田官兵衛を選び、黒田官兵衛に連れられて井口家を出た。この末子・井口弥一之助が後の井口兵助である。

■井口兵助の肝試し
井口兵助が9歳のとき、黒田官兵衛は「死んだ兄3人は武勇に優れていたが、兄弟と言えども生まれながらの資質があるので、井口兵助の勇気を試してみよう」と考えた。

そこで、黒田官兵衛が井口兵助に「汝は人離れに磔を見たことがあるか?」と尋ねると、井口兵助は「いつも見ている」と答えた。

その日の夜、黒田官兵衛は、井口兵助に御札を付けた竹棒を渡し、「今宵は月夜だ。その棒を磔の木の下に刺して来なさい」と命じた。

井口兵助は竹棒を受け取り、死刑場へ行き、言われた通りに磔の木の下に竹棒を挿すと、磔の木が動いた。井口兵助が見上げると、磔にされた罪人が動いていた。

すると、井口兵助は驚くどころか、「まだ死にきらぬか。止めを刺してやる」と言い、刀を抜いて、磔の木に登りだした。

しかし、磔にされていたのは罪人ではなく、井口兵助を驚かせるために死人のふりをしていた黒田官兵衛の下人だった(ただし、井口兵助は罪人と思い込んでいる)。

下人は井口兵助が刀を抜いたので驚き、磔の木から飛び降りて逃げた。井口兵助の罪人に止めを刺そうと思い、刀を振るった。

刀は下人をかすめたが、逃げられてしまった。井口兵助は逃がすまいとして罪人を追いかける。

下人は神社の建物へ逃げ込み、中から戸をして立て籠もった。井口兵助は外から「出てこい」と叫び、いつまで経っても帰らない。

下人は色々と言い訳したが、井口兵助は罪人だと思って許してくれないため、名前を名乗った。しかし、それでも井口兵助は許さなかった。

下人は仕方なく、黒田官兵衛から井口兵助を脅かすように命じられていたことを打ち明け、黒田官兵衛から拝領した浴衣の片袖を切り取り、その証拠として井口兵助に差し出し、謝罪した。

■井口兵助の人質
織田信長が播磨に侵攻したとき、黒田官兵衛は織田信長の傘下に入り、嫡子・黒田長政を人質として織田信長に差し出した。黒田長政は羽柴秀吉に預けられ、羽柴秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)で人質生活をおくることになる。

このとき、井口兵助と大野九兵衛の2人が、黒田長政の近習として長浜城へ送られ、黒田長政に使えた。

後に、黒田官兵衛が有岡城の城主・荒木村重に捕まり、有岡城に幽閉されると、織田信長は「黒田官兵衛が寝返った」と思い込み、竹中半兵衛に人質・黒田長政の処刑を命じた。

竹中半兵衛は人質・黒田長政の処刑を引き受けたが、居城・菩提山城に人質・黒田長政を匿い、別の子供のクビを織田信長に届けた。

このとき、井口兵助と大野九兵衛の2人も居城・菩提山城で匿われ、人質・黒田長政に使えた。井口兵助は黒田長政と共に人質生活を送ったため、仲が良かった。

■良馬が欲しい
井口兵助は16歳で初陣を果たした。井口兵助が20歳の時に戦場で戦っていたとき、川向こうに芦毛の馬に乗った敵将を見つけた。

敵将が強そうに見えたので、井口兵助は1人で川を渡り、敵将を討取った。そして、井口兵助は敵将の身ぐるみを剥いで槍・刀・防具を奪い、その敵将が乗っていた馬に乗って帰陣した。

すると、黒田官兵衛は「素晴らしい功績だが、川向こうの敵を1人で倒しに行くのは危険な行動だ。今後は、このような行動をしてはいけない」と井口兵助を戒めた。

いつも馬が欲しいと思っていた井口兵助は、黒田官兵衛に「敵将が良馬にのっていたので、この馬が欲しかったのです」と答えた。

(注釈:井口兵助は元服したのは、このエピソードの後のようである。)

■朝鮮出兵
朝鮮出兵のとき、高麗陣で、黒田家の家臣・益田与助(黒田24騎の1人)が唐人(中国人)と一騎打ちをしていた時のことである。

益田与助は唐人を押し倒して上になったが、益田与助の指物が落ちた。井口兵助は、益田与助が討たれたのかと思って駆け寄る。

すると、そこへ別の唐人(中国人)が現れ、組み伏せている益田与助を斬ろうとしたので、井口兵助はその唐人の腕を切り落とし、唐人の首を取った。

すると、唐人を組み伏せていた益田与助も、組み伏せていた唐人を殺して首を取った。

そして、立ち上がった益田与助は、井口兵助の手を取って「汝は命の恩人なり」と感謝した。

■井口兵助と横穴地獄のあらすじ
朝鮮出兵のとき、高麗での事である。藪林もない広野に1本の道が通っており、その道の突き当たりに大きな山があった。その山の麓(ふもと)は切岸になっており、その前を大きな道が通っていた。

この大きな道が直角に曲がっている所では、山の切岸に大きな横穴が掘ってあり、横穴には弓の上手な唐人(中国人)が立てこもっていた。

日本軍はこの大きな道を通ろうとしたが、横穴に潜んでいる唐人が日本軍を残らず弓で射殺すのために通れず、大きな道には日本軍の死体の山が出来ていた。

横穴に隠れている唐人(中国人)だけでも強敵なのに、角を曲がった奥にはどのような敵が待ち構えているかも分からないため、日本軍は道を通れずに難儀していた。

すると、井口兵助の家人・山崎喜兵衛(山崎嘉兵衛は誤字か?)が進み出て、「私が見て参ります」と言い、山に向かって走って行った。すると、井口兵助も馬を下りて、家人・山崎喜兵衛の後を追いかけた。

井口兵助が家人・山崎嘉兵衛に続いて横穴に入ると、既に家人・山崎嘉兵衛は唐人(中国人)の射手3人の弓の弦を切っており、射手3人を討取った。

井口兵助も横穴で唐人を討取り、5つの首をもって横穴から出て名乗りを上げると、日本軍が横穴に攻め入り、唐人を追い払った。

■井口兵助の朱具足のネタバレ
朝鮮出兵のとき、井口兵助は黒田長政に「日本軍の諸将が通れずに困っていた難所の敵を、我の手勢で追い払い、黒田家だけでなく、他家も通れるようにした。これは諸人に勝る手柄なので、朱槍を持つ免許(許可)をください。恩賞は望みません」と頼んだ。

黒田長政が家老に意見を求めると、家老は「朱柄は優れた武将にのみ許されるものです。確かめたわけではありませんが、1日に7つの首級を取った者に朱柄は許されると承っております」と答えた。

それを聞いた黒田長政は「汝の働きは優れていたが、首の数が足りないのに、朱柄を望むのはいかがなものか」と、井口兵助をなだめた。
井口兵助は朱槍を切望したが、黒田長政が免許をくれなかったため、「若(黒田長政)、免許が頂けないのであれば、お暇を賜りたい」と、ごねた。

それを聞いた黒田長政は怒って「ならば暇をやる」と答える。すると、井口兵助は、直ぐに黒田陣営を出て、立花宗茂の陣営へと向かった。

井口兵助は途中で撃ち落とした鶴を手土産に、立花宗茂の陣を訪れ、色々と話すと、立花宗茂は親切に話を聞いてくれた。

立花宗茂は「良く参られた」と歓迎してくれたので、井口兵助は「殿(立花宗茂)は小身で御座いますので、後まで主君として頼ろうとは思いませんが、陣中に召置きください」と頼んだ。

立花宗茂は井口兵助を召し抱えようと思い、黒田長政に「井口兵助が来ましたが、本当に暇を与えたのでしょうか?」と問い合わせると、黒田長政から「暇を与えたてありません。無理なことを言って陣を飛び出したのです」という答えが返ってきた。

家出の事情を知った立花宗茂は、井口兵助に「朱槍は、1日に首7つを取った者に与える決まりになっているそうですね。貴方は、たった1度の優れた功績を誇りにして、朱槍を無理強いしている。これでは弱い人の言い分に聞こえる。貴方は1日に7つの首を取る自信が無いのですか?」と言って諭した。

その後、立花宗茂は井口兵助を連れて黒田長政の元を訪れ、黒田長政に「井口兵助が首級を7つ挙げた暁には、必ず朱柄の免許を与えてください」と頼み、井口兵助を黒田長政に返した。

こうして、井口兵助は黒田陣営に戻ると、ほどなくして、1日に7つの首を挙げ、家人・山崎喜兵衛も5つの首を取った。

その日、井口兵助は計12個の首を黒田長政の首実検に差し出し、朱柄を持つことが許された。

黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」のなかでも、朱柄が許されたのは、井口兵助と菅和泉(菅正利)の2人だけである。この2人は赤色の鎧を着ているので直ぐに分かる。

なお、菅和泉(菅正利)は新免無二流と疋田陰流の両方を極めた剣豪である。

■村田に改名
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦のとき、黒田如水(黒田官兵衛)は中津城で挙兵し、九州統一へと乗り出したが、徳川家康の命令を受けて九州平定を打ち切り、肥前(佐賀県)に着陣したときのことである。

肥前(佐賀県)の鍋島直茂は黒田如水をもてなし、家臣にも黒田如水に挨拶させた。そのとき、鍋島直茂が「家臣の村田は数々の武功をあがたが、未だに怪我一つしたことがない」と紹介した。

すると、黒田如水は「我が家臣の井口は、討ち死にしやすい。無類の働きをしたが、兄弟3人が討ち死にした。ただ1人、末子の井口兵助が生き残っている。今度、連れてきます」と答えた。

その後、黒田如水は、負傷したことのない鍋島直茂の家臣・村田の幸運にあやかるため、黒田如水は鍋島直茂の許可を得て、井口兵助に村田を名乗るように命じた。こうして、井口兵助は村田姓を名乗るようになり、以降は村田兵助と名乗った。


黒田長政が筑前(福岡県)を拝領すると、村田兵助(井口兵助)は黒田長政から2000石を賜り、代官を務めた。村田兵助は性格が激しいため、領内の民をたくさん処刑した。

大阪城普請のとき、村田兵助は黒田長政の命を受け、大阪に上った。このとき、村田兵助は「人並みの普請場を引き受けても仕方がない。一番目立つ場所を引き受けてこそ、黒田長政の忠義を幕府に示せるというものだ」と考えて、天守閣の石垣普請を引き受けた。

このため、黒田家の諸将は「村田兵助の無用な望みにより、黒田長政に無駄な出費をさせる」と言い、村田兵助を恨んだ。さらに、村田兵助は石切場で他藩の武将とも問題を起した。

村田兵助は黒田家の問題児で、様々なところで問題を起し、元和7年10月29日に死去した。享年57歳だった。

村田兵助は色々な武将に嫌われたが、黒田長政と人質生活を送ったため、黒田長政とは仲が良かった。

その他の黒田家家臣のあらすじとネタバレについては「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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