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黒田三左衛門(黒田一成)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田家臣伝「黒田三左衛門(黒田一成)の生涯」です。


■黒田三左衛門(黒田一成)のwiki
黒田三左衛門の本名は「黒田一成」である。幼名は「加藤玉松」と言い、後に「黒田三左衛門」を名乗り、筑前入国後は「黒田美作」と名乗った。隠居後は剃髪して「睡鴎」を名乗った。

黒田三左衛門は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、黒田24騎の中でも精鋭を選んだ「黒田八虎」にも選ばれている。

■黒田三左衛門(黒田一成)の生涯
黒田三左衛門は父・加藤重徳(加藤又左衛門)の次男として元亀2年(1571年)に摂津国伊丹(兵庫県伊丹市)で生まれた。

父・加藤重徳は、伊丹城の城主・伊丹忠親と同族で、伊丹忠親に仕えていたが、荒木村重が織田信長から摂津を拝領したさい、伊丹忠親らとともに荒木村重に降り、荒木村重の家臣となった。

有岡城(伊丹城から改名)の城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したとき、説得に来た黒田官兵衛を捕らえて牢屋に入れた。

このとき、牢番を止めていたのが、父・加藤重徳で、伊丹一族が黒田官兵衛の面倒を見た。

また、黒田家の家臣・井口吉次の叔母(母親の姉)が有岡城で働いており、牢番・加藤重徳は井口吉次の祖母(母親の姉)が黒田官兵衛の世話をすることを黙認し、家臣・井口吉次の叔母(母親の姉)は黒田官兵衛の衣服を洗うなどした。

さらに、牢番・加藤重徳は、黒田官兵衛を助けるために有岡城に潜伏していた栗山善助らとの会話を黙認したりして、便宜を図った。

黒田官兵衛は牢番・加藤重徳の便宜に感謝し、「もし、無事に帰ることができれば、貴方の子供を1人頂き、養育したい」と申し出た。

その後、有岡城が落城したとき、加藤重徳は9歳の次男・加藤玉松を黒田官兵衛に託した。

黒田家が人質として織田信長に預けた松寿丸(黒田長政)は処刑されたと伝わり、黒田官兵衛は加藤重徳の次男・加藤玉松を養子に迎えるが、その後、竹中半兵衛の機転によって松寿丸(黒田長政)が生きていた事が判明する。

しかし、黒田官兵衛は加藤玉松を養子として黒田姓を与え、我が子と同様に養育した。この加藤玉松が後の黒田三左衛門(黒田一成)である。

■加藤重徳のその後
次男・加藤玉松を黒田官兵衛に託した父・加藤重徳は、黒田官兵衛の従弟で宇喜多秀家の家臣・明石全登を頼り、宇喜多家に仕えた。

父・加藤重徳は宇喜多家に7年仕えた後、肥後国の小西行長に仕え5000石の家老となり、関ヶ原の合戦後、筑前を拝領した黒田長政に招かれ、3000石を拝領して黒田家の家老となった。

■黒田三左衛門の初陣
天正12年(1584年)、黒田三左衛門は14歳のとき、岸和田で起きた一揆の討伐で初陣を果たした。

天正13年(1585年)には黒田官兵衛に従って四国征伐に加わった。天正15年(1587年)には九州征伐に加わり、日向国で行われた耳川の合戦で2人を討取り、功名を挙げた。

天正15年(1587年)、豊前入国時に起きた豊前一揆のとき、黒田長政に従い、数々の手柄を挙げた。

■影武者
黒田官兵衛が豊前(福岡県)を拝領したとき、豊前の豪族・城井鎮房が一揆を起した。

黒田長政は城井鎮房の城井谷城を攻めるが、城井谷城は天然の要害に守られていたため、黒田長政は敗走する。

このとき、黒田三左衛門は黒田長政の影武者を志願して黒田長政を逃がそうとしたが、黒田長政は影武者を認めなかった。

■黒田三左衛門の怪力伝説
城井谷城の城井鎮房は鹿の角を裂くほどの怪力で、非常に固い弓を使っていた。このため、黒田家の家臣は誰も城井鎮房の弓を引くことが出来なかったが、黒田三左衛門も怪力の持ち主だったので城井鎮房の弓で巻藁を射ることが出来た。

■黒田三左衛門の朝鮮出兵
朝鮮出兵のとき、黒田三左衛門は黒田長政に付き従って朝鮮半島に渡り、金海城攻めでは、一番に金海城へ乗り込んだ。黄街道では、敵軍の大軍に1人で突き進み、敵軍を崩壊させた。

黒田三左衛門は朝鮮半島で数々の功績を挙げたが、その功績を語り継ぐ者が居ないため、詳細については分からない。

■黒田三左衛門の「毛付の功名」
関ヶ原の合戦の前哨戦、美濃の攻め入った東軍が合渡川(木曽川)を渡って合渡川(木曽川)の西に布陣する石田三成ら西軍を撃破した時のことである(合渡の戦い)。

黒田三左衛門は合渡川(木曽川)を渡る前に、対岸に居る敵陣の中に朱の枝釣の指物をして、青の大馬に乗った武者を見つけ、優れた武将に違いないと思い、諸将の前で黒田長政に「「私は今日、あの朱の指物をした武者を討ち取る」と宣言した。

これを聞いた黒田長政は「おこがましいことを言うな。軍の勝負は時の仕合によるものなり。もし、あの武者に馳会わなければ、今の言葉は嘘になる」と言って、黒田三左衛門を叱りつけた。

しかし、その後、黒田長政は合渡川(木曽川)の渡河を決定すると、徳川家康から拝領した2頭の良馬のうち1頭を自ら乗り、もう1頭の良馬を黒田三左衛門に与えた。

黒田三左衛門は優秀な馬に乗っていたので、心強く、合渡川(木曽川)を一直線に渡って、対岸に上がり、対岸に居る敵を散々に討った。

このとき、黒田三左衛門は合渡川(木曽川)を渡る前に「あの武者を討ち取る」と宣言した朱の枝釣の指物をした武者を見かけたので、呼び止めて戦った。

黒田三左衛門は槍で武者を突いたが、槍の先が折れて鎧を通らなかったため、武器を捨てて敵将に組み付きいて馬から落とし、首を討ち取った。そして、朱の枝釣の指物を添えて首を首実検にかけた。

生け捕りになった敵兵が証言するに、黒田三左衛門が討ち取った武者は、石田三成の足軽頭・村山利介(村山理助)という武者であった。

諸将は「河を渡る前に毛付をして武者を討ち取ると宣言したときは、廣言のように思っていたが、言葉を違えずに武者を討ち取り、比類無き手柄を立てた」と感心した。

■黒田三左衛門の関ヶ原の戦い
関ヶ原の合戦の本戦のとき、黒田三左衛門は、領土回復のために参戦した浪人・伊丹伊頓を助けて石田三成の軍勢と戦った。

黒田三左衛門は石田三成の家臣・安宅作右衛門を取り押さえたので、伊丹伊頓に安宅作右衛門の首を打たせて手柄をあげさそうとしたが、伊丹伊頓は負傷しており、安宅作右衛門を討ち取れずに死んでしまった。

また、黒田三左衛門は関ヶ原の合戦の本戦で、蒲生将監など数人を討取り、功績を挙げた。

豊前国に残してきた黒田三左衛門の家人は、九州で挙兵した黒田如水(黒田官兵衛)に従って戦い、特に家人の江見彦左衛門・粕屋茂兵衛・勘六・新藤加右衛門などが手柄を挙げたため、黒田如水から感謝状を貰った。

■筑前時代
筑前入国後、黒田三左衛門は1万6000石を拝領した。黒田家のお家騒動「黒田騒動」では、2代目藩主・黒田忠之の側にたち、栗山善助と対立した。

■大坂の陣
元和元年の「大阪夏の陣」では黒田三左衛門は、黒田忠之に付き添って参陣したが、兵庫で大阪城の落城を聞いた。

■島原の乱
黒田三左衛門は68歳にして島原の乱に参陣する。江戸幕府軍の総大将・松平信綱に軍議への参加を命じられたが、黒田三左衛門は土地勘がなかったので、直ぐに軍議へ向かわず、城を出て地形を見て回ってから軍議に参加した。

これを聞いた総大将・松平信綱は「さすがは歴戦の巧者なり」と感心し、黒田三左衛門に褒美を与えた。

また、城攻めの軍議では、黒田三左衛門が「力攻めにすれば、直ちに落城させることができるが、敵は弾薬を十分にもっているので、味方の損害が大きくなる。ここは兵糧攻めにして、いたずらに弾薬を使わせ、疲れたところで乗っ取るべし」と提案した。

他の武将が「敵に臆したか」とあざ笑うと、黒田三左衛門は「若き時より敵を向かって臆したことは御座いません。ただ、味方の損害が大きいので申し上げたのです」と答えた。

それを聞いた総大将・松平信綱は黒田三左衛門の意見に納得して兵糧攻めを採用した。

■黒田三左衛門の死去
黒田三左衛門は身長6尺(1.8メートル)の巨漢で怪力の持ち主だったが、非常に温厚で、要職にあっても、威厳を欲しいままにするようなことはなかった。

戦場での活躍を尋ねても、自分の功績については詳しくは語らず、ただ「黒田長政の采配で戦いに勝つことが出来た」と話すだけであった。

このため、黒田三左衛門は数々の戦で手柄を挙げたが、その功績は語り継がれず、功績の詳細は分からない。

黒田三左衛門はこのような性格だったので、隠居後は客人が途絶える事無く、好んで日夜に及んで談笑し、明暦2年11月13日(1656年12月28日)に福岡城で病死した。

その他の黒田家の家臣については、「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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