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栗山善助(栗山利安)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎伝「栗山善助(栗山利安)の生涯」です。


■栗山善助(栗山利安)のwiki
栗山善助(栗山利安)は黒田家を代表する「黒田24騎」の1人で、黒田24騎のなかでも武功のある「黒田八虎」である。

栗山善助は生涯で57の首級を挙げ、黒田官兵衛の右腕とした活躍した。そして、栗山善助は黒田家の第1家老を務め、黒田家家臣のトップであった。

なお、黒田家の第2家老は井上九郎右衛門で、第3家老は母里太兵衛である。

■栗山善助の生涯
栗山善助の本名は「栗山利安」である。幼名を「栗山善助」と言い、後に「栗山四郎右衛門」と改め、筑前入国は「栗山備後」を名乗った。

栗山善助は天文20年に播磨国姫路の近くで生まれた。父親の名前は分からない。栗山家は代々、播磨守護大名・赤松家に仕え、足利尊氏から播磨国姫路の近くにある栗山を拝領したことから、栗山姓を名乗った。

永禄8年の夏、栗山善助は15歳のとき、播磨守護職の赤松家が衰退しており、姫路付近では「黒田家は大国の主」という噂が流れていたので、黒田官兵衛に仕官した。

黒田官兵衛は幼少なのに奇特だと思い、栗山善助を召し抱えた。栗山善助は正直で奉公にも精を出すので、黒田官兵衛が「善助」と名付けた。

■義兄弟の誓い
その後、母里太兵衛(母里友信)が黒田家に仕えるようになったが、母里太兵衛は非常に強情な性格だった。

そこで、黒田官兵衛は、栗山善助と母里太兵衛の2人を呼び、「栗山善助を兄とし、栗山善助は母里太兵衛を助け、母里太兵衛は栗山善助の言いつけに背くな」と命じ、2人に義兄弟のちぎりを交わさせた。

母里太兵衛は大人になっても強情な性格で黒田長政をも困らせたが、黒田官兵衛の言いつけを守り、栗山善助の言葉には素直に従った。

■栗山善助の初陣
永禄12年(1569年)8月、龍野城の赤松政秀が田官兵衛の居城・姫路城へ進軍したとき、黒田官兵衛は青山で赤松政秀を迎え撃った(青山の戦い)。

栗山善助は「青山の戦い」で初陣を果たし、芝原弥十郎と斬り合い、難なく芝原弥十郎を討取った。また、同日、大きな鎌を持った桑原左衛門を討取った。

■英賀合戦
毛利の軍勢が英賀に攻めてきた「英賀合戦」で、栗山善助は、鎖鎌の使い手房野弥三郎と対決し、房野弥三郎を討取った。

■黒田官兵衛を救出
有岡城の荒木村重が織田信長に反旗を翻して、黒田官兵衛を監禁したとき、栗山善助は有岡城に乗り込んで、黒田官兵衛の安否を気遣った。

このとき、敵に見つかったため、急いで逃げた。栗山善助は敵に鉄砲で撃たれたが、刀の鞘に当たったため無事だった。

その後、有岡城に居る知り合いの銀屋新七が門番を買収してくれたため、栗山善助らは牢屋に近づいて黒田官兵衛と連絡を取ることが出来るようになった。

有岡城が落城するとき、栗山善助は、城内の混乱に乗じて黒田官兵衛を牢屋から救出し、有岡城から運び出した。黒田官兵衛はこれに感謝し、栗山善助に秘蔵の馬を与えた。

■豊前時代
黒田官兵衛が1万石の大名に出世したとき、栗山大膳は200石を拝領した。以降、加増を重ね、豊前(福岡県東部)入国後に6000石を拝領し、豊前の政治を任された。

■朝鮮出兵
朝鮮出兵のとき、長期滞在するのに飲み水が無くて困っていたが、栗山善助が水脈を見つけて井戸を掘り、水不足問題を解決した。朝鮮人からも非常に感謝された。

■天満屋敷からの脱出
各地の大名は人質として妻子を大阪に住ませており、黒田家も黒田官兵衛の妻・櫛橋光と黒田長政の妻・栄姫が、大阪にある天満屋敷に住んでいた。

黒田長政は徳川家康に従って会津討伐(上杉討伐)に出る事になったため、栗山善助と母里太兵衛に「もしもの時は母・櫛橋光と妻・栄姫を連れて中津城へと逃げよ。逃げられない場合は、櫛橋光と栄姫を殺して、自害せよ」と命じ、天満屋敷の留守を任せた。

そして、徳川勢が会津討伐(上杉討伐)に出て大阪から居なくなると、西軍の石田三成は徳川方の大名の妻子を人質に取るため、各大名の屋敷に兵を派遣し、妻子を人質に取り始めた。

栗山善助と母里太兵衛は、出入りの商人・納屋小左衛門に櫛橋光と栄姫を匿うように頼んでおり、石田三成の行動を察知すると、商人に変装して櫛橋光と栄姫を商人・納屋小左衛門の屋敷へ送り届けた。

その後、栗山善助と母里太兵衛は櫛橋光と栄姫を連れて逃げる機会をうかがっていたが、西軍の警備が厳しく川を封鎖されてていたため、櫛橋光と栄姫を殺して自害する覚悟をした。

しかし、慶長5年(1600年)7月17日、人質になる事を拒んだ細川ガラシャ(細川忠興の正室)が屋敷を爆破して自害したため、騒動の影響で警備が手薄となった。

栗山善助と母里太兵衛は、その隙を突いて、櫛橋光と栄姫を連れて大阪湾へと出て、迎えの船に櫛橋光と栄姫を預け、無事に豊前の中津城へと送り届けた。その後、栗山善助と母里太兵衛も中津城へと戻った。

■関ヶ原の合戦
関ヶ原の合戦のとき、黒田如水(黒田官兵衛)が中津城で挙兵すると、栗山善助と母里太兵衛も黒田如水に従軍した。

黒田軍・井上九郎右衛門らの軍勢が石垣原で大友義統の軍勢を撃破すると、母里太兵衛は調略を使って大友義統を降服させた。

■筑前時代
黒田長政が筑前(福岡県)に入国したとき、筑前には名島城と左右良城という城があり、黒田如水・黒田長政は名島城へ入った。

左右良城は豊前・豊後に近かったので、豊前・豊後の押さえとして栗山善助が左右良城に入り、栗山善助は1万5000石と名馬を賜った。

黒田如水は死去する前、栗山善助と黒田長政を枕元に呼び、栗山善助に愛用した兜を与え、「本来なら黒田長政に与えるのが筋だが、思うところがあって栗山善助に合子の兜を与える。今より、合子の兜を私だと思え。栗山善助は黒田長政を我が子だと思い、指導せよ。黒田長政は栗山善助を父親だと思い、栗山善助に従え」と遺言した。

このとき、黒田官兵衛が栗山善助に与えたのが、九州平定の時に使用した朱塗合子形兜合子(通称「如水の赤合子」)である。

■栗山善助の隠居
元和元年(1615年)、豊臣秀頼が徳川家康に背いた「大坂の陣(大坂夏の陣)」のとき、栗山善助は黒田長政の子・黒田忠之に付き従って徳川方として参加したが、兵庫で大阪城落城の報告を受けた。そして、栗山善助は大坂の陣を最後に隠居した。

栗山善助は非常に謙虚で、身分にかかわらず、傍輩(同じ主君に仕える人)には丁寧に接し、道で傍輩にすれ違えば、必ず馬を下りて挨拶をした。

栗山善助は派手を好まず、常日頃から倹約し、家臣が高価な馬を購入すると聞けば、「馬は高くても2頭分の働きはしない」と言って諫めた。

しかし、事があれば金銀を惜しまず遣い、参勤交代で江戸へ行く者には惜しみなく金を貸した。そして、返済を申し出た者からはお金を受け取ったが、返済できなかった者に返済を督促しなかった。

なお、栗山善助の死後、栗山善助の帳簿を調査すると、貸銀は100貫目に及んでいた事が明らかとなった。

■栗山善助の死
死ぬ前日の朝、栗山善助は昏睡状態に陥っていたが、突如として目を開き、「馬よ!鉄砲よ!彼方に敵が出た。味方の人数を揃えてあの山に鉄砲を放て」と大声で命じ、看護の者を大変驚かせた。

栗山善助は1夜でこのような事を5回繰り返し、寛永8年8月14日(1631年9月10日)の朝に死去した。享年83歳だった。栗山善助は黒田官兵衛の右腕として活躍し、生涯で57の首級を上げた。

栗山善助の死後、人々は「栗山善助は平素は謙虚な人で、戦の話など、したことが無かったが、常々、戦のこと考え、敵に備えていたのか」と感心した。

■その後の栗山家
栗山大膳の家督は子の栗山大膳が引き継いだ。栗山大膳は福岡藩の2代目藩主・黒田忠之と険悪に成り、お家騒動「黒田騒動」を起した。

黒田騒動の結果、江戸幕府の裁きにより、栗山大膳は盛岡藩預かりとなり、子孫は「山内」姓へと改名し、南部藩(盛岡藩から南部藩へと改称)に仕えた。

栗山大膳は福岡藩・黒田家を立ち去る時に朱塗合子形兜合子(通称「如水の赤合子」)を持ち去ったため、朱塗合子形兜合子の本物は盛岡市中央公民館に展示されている。他の朱塗合子形兜合子は偽物である。

その他の黒田家家臣については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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