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野村太郎兵衛(野村祐勝)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎伝「野村太郎兵衛(野村祐勝)の生涯」です。


■野村太郎兵衛(野村祐勝)のwiki
野村太郎兵衛は黒田家家臣を代表する「黒田24騎」の1人である。野村太郎兵衛は黒田24騎の母里太兵衛と異母兄弟に当り、兄弟揃って黒田24騎に選ばれた。

注釈:異母兄・母里太兵衛の生涯については「母里太兵衛(母里友信)の生涯」をご覧ください。

■野村太郎兵衛(野村祐勝)の生涯
野村太郎兵衛は播磨国姫路(兵庫県姫路市)で生まれた。父親は曽我一信で、黒田24騎の母里太兵衛とは異母兄弟にあたる(母里太兵衛が異母兄)。

野村太郎兵衛も兄・母里太兵衛も本来の姓は曽我だが、野村太郎兵衛は地名の野村を名乗り、兄の母里太兵衛は母方の姓「母里」を名乗った。

野村太郎兵衛は、野村城(兵庫県加古川市八幡町野村)の城主・野村太郎兵衛(同姓同名の別人)の娘と結婚しており、天正3年に野村城が明智光秀に攻め滅ぼされると、野村太郎兵衛が野村の姓を引き継いだ、と伝わっている。

■野村太郎兵衛の初陣
野村太郎兵衛は幼少より黒田官兵衛に仕えた。天正元年(1573年)に異母兄・母里太兵衛と共に初陣を果たして以降、播磨(兵庫県)で行われた小さな合戦で度々、手柄を挙げた。

■野村太郎兵衛と岸和田城の戦い
天正12年(1584年)、紀州(和歌山県)の根来・加賀の僧侶が奮起し、大阪へと攻め上る。根来・加賀の軍勢は2手に別れ、1方は陸路から岸和田に攻め入り、もう1方は海路から堺へ攻め入った(岸和田城の戦い)。

このとき、中村一氏が岸和田城を守っており、豊臣秀吉は黒田長政・蜂須賀小六・明石左近・生駒親正・黒田兵庫助などを添番として岸和田城へ派遣した。

黒田長政は陸路から攻めてきた根来の軍勢と勇んで戦い、2人を切り伏せ、その他にも多くを討取り、敵軍を敗走させた。

敗走した根来の軍勢は、悔しがり、黒田長政を追撃するため、少し経つと700騎あまりで引き返した。

しかし、黒田長政らの軍勢は既に撤退しており、戦場には野村太郎兵衛がただ1人で残っていた。

野村太郎兵衛は敵の軍勢が引き返してくるのを見ると、橋の上に上り、敵軍に姿を見せた。すると、敵軍は野村太郎兵衛を見て「まだ多くの敵軍が残っている」と思い、兵を引き返した。

しかし、敵軍の中に1騎だけ、引き返さない武者が居た。野村太郎兵衛はその武者を見つけると、槍を持って一騎打ちを挑んだ。

直ぐには勝負がつかず、戦っては休み、戦っては休み、何度も勝負したが、決着はつかなかった。

そこへ、明石左近の家人・明石与太郎が駆けつけ、野村太郎兵衛と戦い疲れて休んでいる武者を討取った。

■野村太郎兵衛の九州征伐
天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州征伐のとき、野村太郎兵衛は黒田官兵衛に従って九州へ下り、11月7日に黒田・吉川・小早川の軍勢とともに、豊前国の宇留津城を包囲し、最後には宇留津城を攻め落とした。このとき、野村太郎兵衛は大きな功績を挙げた。

天正15年(1587年)、日向国で行われた耳川の戦いでは、野村太郎兵衛は足軽20人を従えて川端の小土手を盾にし、鎌を杖にして命令を下した。その結果、野村太郎兵衛は足軽を1人も失うことなく、手柄を挙げた。

■野村太郎兵衛の豊前国一揆
天正15年(1587年)、黒田官兵衛は豊前6郡を拝領したが、豊前の国人が黒田官兵衛に敵対し、豊前国一揆を起こした。このとき、野村太郎兵衛は黒田長政に従って出陣し、一揆の鎮圧の所々で手柄を上げた。

■野村太郎兵衛の城井鎮房の暗殺
豊前国一揆の首謀者で城井谷城の城主・城井鎮房は、黒田官兵衛に降伏したものの、城井谷城に籠もったままで、黒田官兵衛に挨拶にも来ていなかった。

そのようななか、天正17年(1589年)の春、黒田官兵衛が豊臣秀吉の命令で肥後(熊本県)へ向かうと、城井谷城の城主・城井鎮房が挨拶を口実に手勢200人を率いて中津へやってきた。

その知らせを聞いた黒田長政は、「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い、吉田又助に酌を命じ、野村太郎兵衛に城井鎮房を殺すように命じた。

そして、黒田長政は城井鎮房を中津城へ入れて、宴席を設けると、計画通り、吉田又助に酌をさせ、野村太郎兵衛に「肴」と合図を送った。

しかし、隣の部屋に居た野村太郎兵衛には聞こえなかったのか、野村太郎兵衛は動かなかった。

少しして黒田長政が再び「肴」と叫ぶと、野村太郎兵衛はハッとして肴を載せた三方(膳)を持って城井鎮房の前へと歩み出て、城井鎮房に三方(膳)を投げつけると、城井鎮房の左の額から目の下まで切りつけた。

すると、城井鎮房が脇差しを半分ほど抜いて立ち上がろうとしたので、黒田長政は側にあった刀を抜いて城井鎮房を切りつけた。

城井鎮房が倒れると、野村太郎兵衛は刀を横たえて片手を突き、「日頃の御本望にそうろう。今、一太刀遊ばしたまえ」と告げると、黒田長政は立ち上がり、城井鎮房を腰の辺りで切断した。

■野村太郎兵衛の朝鮮出兵
豊臣秀吉による第1次朝鮮出兵(文禄の役)のとき、野村太郎兵衛は黒田長政に従って朝鮮半島に渡り、所々で功名を挙げた。

■野村太郎兵衛の最後
明(中国)との講和が成立し、第1次朝鮮出兵(文禄の役)は休戦となると、日本軍の大半は帰国した。

野村太郎兵衛は休戦によって朝鮮半島から帰国したが、帰国後に病気になり、慶長2年(1597年)2月14日に中津城下で病死した。享年38歳だった。野村太郎兵衛の家督は、子の野村市右衛門(野村祐直)が引き継いだ。

息子・野村市右衛門(野村祐直)のあらすじとネタバレは、「野村市右衛門(野村祐直)の生涯」をご覧ください。

その他の黒田家の家臣については、「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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