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吉田六郎太夫(吉田長利)と吉田又助(吉田重成)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎「吉田六郎太夫(吉田長利)と吉田又助(吉田重成)の生涯」です。


■吉田六郎太夫(吉田長利)のwiki
吉田六郎太夫の本名は「吉田長利」という。本姓は「八代」で、幼名を「八代六之助」と言い、その後に「吉田六郎太夫」と名乗り、晩年は「吉田壱岐」を名乗った。

吉田六郎太夫は数々の戦で武功を揚げたが、生涯で1度しか傷を受けなかった豪傑で、播磨時代に首供養を行い、黒田家臣を代表する「黒田24騎」に選ばれた。

■吉田六郎太夫(吉田長利)の生涯
吉田六郎太夫は、天文16年(1547年)に播磨国飾東軍八代村に生まれた。父親は八代六郎左衛門(八代道慶)である。

八代家は播磨・赤松家の一族で、父・八代六郎左衛門(八代道慶)は御着城の城主・小寺則職に仕えた。父・八代六郎左衛門は弓で目を射られたとき、その弓矢を抜き捨て、射手を殺した程の豪傑だった。

黒田官兵衛は前年の天文15年(1546年)に生まれた。黒田官兵衛の母親は乳の出が悪かったため、吉田六郎太夫の母親が黒田官兵衛にも乳を与えており、吉田六郎太夫と黒田官兵衛は竹馬の友ならぬ「乳首の友」として育った。

■吉田六郎太夫の出仕
吉田六郎太夫は17歳の時に出仕し、黒田官兵衛の父・黒田職隆に仕えた。このとき、黒田家には吉田喜三右衛門という黒田家第1の家臣が居た。

吉田喜三右衛門は赤松家一族の吉田家の末裔で、民間に落ちた後、黒田職隆に使えていた。吉田六郎太夫は吉田喜三右衛門から姓を賜り、「八代」から「吉田」へと改名した。

吉田六郎太夫は播磨の豪族・別所家との戦いで数々の武功を揚げた。吉田六郎太夫は足が速かったので、単身で乗り込み、首を下げて帰ってくることも多かった。

■吉田六郎太夫の首供養
関西地方から中国地方にかけて、33個の首級を取った者は首の供養を行う習慣があり、首供養を行うことは武将にも城主にも名誉なことであった。

あるとき、播磨の豪族・別所家の老将が武功を重ねて33個の首を取り、首供養を行った。別所家の家臣が首供養を行ったという知らせは、直ぐに中国地方にまで届き、中国地方の隅々まで別所家の名前が知れ渡った。

黒田官兵衛には、別所家よりも優秀な家臣が多く居り、黒田家の家臣・秦桐若(はたのきりわか)は播磨国にその名を轟かせ、首級を31個とっていた。

しかし、秦桐若は、山崎の合戦で傷を受け、有馬温泉で湯治(温泉治療)したとき、「この湯の妙によって、入浴しただけで傷が癒えた。ならば、この温泉を飲めば、もっと早く傷が治るのではないか」と言って温泉を3杯飲み、腹痛を起して死んでしまった。

(注釈:吉田六郎太夫の伝承では、秦桐若は首供養を行っていないことになっているが、秦桐若は33個の首を取り、黒田家で初めて首供養を行ったとも伝わっている。秦桐若の生涯については「秦桐若の生涯」をご覧ください。)

黒田官兵衛は、別所家が首供養を行ったことを知ると、「秦桐若が生きていれば、今頃は首を33個挙げ、首供養を行っているはずだ。秦桐若の他に首を多く挙げ、首供養を行う者も居ない。六之助(吉田六郎太夫)、先に首供養をしなさい」と命じた。

吉田六郎太夫は「青山の戦い」などで功名を挙げ、単身で敵軍に乗り込んでは、複数の首をぶら下げて帰ってくる事も多い猛者だったが、この時の首数は27個だった。

このため、吉田六郎太夫は黒田官兵衛に「私は、ただいまの首の数は27です。33に足りないのに、どうして首供養をするのでしょうか」と尋ねた。

すると、黒田官兵衛は「さては、汝は小心者か。汝は今年で32歳であろう。まだ若いので、一生のうちに33個の首を取る。先に首供養を行い、後で首数を33個にすればよい」と答えた。

こうして、吉田六郎太夫は黒田官兵衛から100石を賜り、青山の南側に首塚を築いて首供養を行った。その後、吉田六郎太夫は日本と朝鮮半島で活躍し、計50個の首を取った。

■吉田六郎太夫の嫡子・吉田与次
吉田与次は吉田六郎太夫の嫡子なり。吉田与次は、背も大きく力も強かった。吉田与次は15歳のとき、父・吉田六郎太夫が腰に刺している長刀を欲しがった。

この長刀は2尺3寸5分(約71cm)もあるので、父・吉田六郎太夫は「汝には長すぎる。もう少し成長して力を付けたら、与えよう」と嫡子・吉田与次を諭した。

すると、吉田与次は「重くても良いので、少しだけ貸して欲しい」と言い、長刀を借りて抜くと、片手で100回ほど素振りした。

父・吉田六郎太夫はこれを見て大いに喜び、その場で吉田与次に長刀を与えた。これを聞いた黒田官兵衛は、即座に吉田与次を召し抱えた。

黒田家の家臣となった吉田与次は、父親から貰った長刀を持って数々の戦に参加し、19歳までに9つの首を挙げたが、別所長治との戦いのとき、鉄砲で討たれて深手を負い、戦死した。

■吉田六郎太夫の次男・吉田又助(吉田重成)
吉田六郎太夫の次男・吉田又助は、元亀2年に生まれた。本名は「吉田重成」で、後に「吉田七左衛門」と名乗り、晩年は「吉田壱岐」を名乗った。

(注釈:吉田六郎太夫の父・吉田六郎太夫も晩年は「吉田壱岐」を名乗っている。)

天正15年、豊臣秀吉による九州征伐のとき、次男・吉田又助は日向(宮崎県)で行われた「耳川の戦い」で初陣を果たし、膝を切られて負傷しながらも、薩摩兵1人を討ち取った。

■吉田又助と城井鎮房の暗殺
豊臣秀吉が九州を平定すると、黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)を拝領したが、豊前の国人は黒田官兵衛に従わず、一揆を起こした(豊前国一揆)。

やがて、一揆は鎮圧され、豊前国一揆の首謀者で城井谷城の城主・城井鎮房も、黒田官兵衛に降伏したが、城井鎮房は城井谷城に籠もったままで、正月の挨拶にも来なかった。

しかし、黒田官兵衛が肥後(熊本県)へ行って中津城を留守にすると、城井谷城の城主・城井鎮房が挨拶を口実に手勢200人を率いて中津へとやってきた。

すると、中津城の留守をしていた黒田長政は、「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い、城井鎮房を討ち取る作戦を練ると、吉田又助に酌を命じ、野村太郎兵に城井鎮房の殺害を命じた。

しかし、負傷していた足が不自由だった吉田又助は「晩酌を仰せつかるのは誠に面目です。しかし、私は昨年、日向で左の膝口を切られ、命は助かったものの、陣中で止血も出来なかったため、体が弱っております。ただいま、少々の歩行は出来ますが、すねにも力が入らず、手にも力が入りません。大事な仕事を辞退するのは残念ですが、体の達者な者に仰せつけください」と辞退した。

すると、黒田長政は「汝の力が未だに戻らないのは目の前の事である。今夜の酌に手足の強さは必要ない。ただ心を静かにして動かざる事をよしとする。吉田又助に酌を任せること、辞退には及ばない」と言い、吉田又助に酌を命じた。

こうして、吉田又助は城井鎮房の酌を努め、城井鎮房の殺害に貢献した。さらに、吉田又助は城井鎮房の家臣2人を討ち取る活躍を見せた。

■朝鮮出兵
第1次朝鮮出兵のとき、吉田六郎太夫・吉田又助の親子は黒田長政に従って朝鮮半島へ渡った。

このとき、吉田六郎太夫は足軽を率いて先発隊として朝鮮半島に渡り、日本勢が無事に朝鮮半島に上陸できるように備えを固め、日本軍の上陸を支援した。

■吉田又助は見積もり上手
朝鮮半島には、平安川という大河があった。平安川は日本には存在しないほど大きな河なので、黒田長政は記録を付けるために諸将に平安川の広さを見積もらせた。

諸将は平安川の広い部分を見積もるが、諸将の見積もりは7町(763m)から13町(1.4km)まであり、黒田長政はどれを実際の距離とすれば良いのか判断出来なかった。

そこで、黒田長政は、吉田六郎太夫・吉田又助の親子に「今後の為に記録しておかなければならない。なんとしても実際の広さを知りたい」と命じた。

吉田六郎太夫は帰って相談するが、町を知っている者は居たが、10町(1km)にも及ぶ平安川の広さを知る者は居なかった。

翌朝、吉田又助が平安川へ行くと、朝鮮人3人が対岸から、こちらの様子を偵察していた。

そこで、吉田又助は「朝鮮人は背が高いといえど、我が家臣・小柳権七は大男なので、朝鮮人に劣らない」と言い、小柳権七を呼び寄せた。

小柳権七が来ると、吉田又助は「対岸の朝鮮人が居なくなるから急げ」と言い、小柳権七に土手を走らせ、小柳権七が対岸に居る朝鮮人と同じ大きさになると、合図を送って止まらせた。

そして、吉田又助は小柳権七までの距離を測り、平安川の川幅を8町5段(84m)と見積もり、黒田長政に報告した。

黒田長政はこれに喜び、度々、吉田六郎太夫親子に川の広さの見積もりを命じるようになった。このため、吉田六郎太夫・吉田又助は「川の見積もり上手」と呼ばれるようになった。

■鼻をそぎ落とす
朝鮮出兵のとき、豊臣秀吉から「日本人の数ほど敵を倒し、耳を切り落として差し出せ」と言うお達しがあった。

吉田六郎太夫は、家人10人と足軽部隊250人を指揮していたので、朝鮮人を討ち取り、耳を切り取り、耳260個を黒田長政に献上した。

その後、豊臣秀吉から「耳を切らず、鼻をそぎ落として差し出せ」というお達しが来たので、吉田六郎太夫は50数日の間に、自分の部隊の人数分だけ朝鮮人を討取り、鼻をそぎ落として黒田長政に献上した。

吉田六郎太夫は足軽を預かっていたので、見張り番として10町、20町先まで出て、不審な朝鮮人を殺したため、吉田六郎太夫が討ち取った人数は数知れず。

■吉田六郎太夫の関ヶ原の戦い
慶長5年、関ヶ原の合戦のとき、吉田六郎太夫・吉田又助の親子は、豊前・中津城で兵を起した黒田官兵衛に従い、豊後へと侵攻した。

豊後にある富来城を攻めたとき、吉田六郎太夫は足軽を率いて櫓を焼き落とした。このとき、吉田六郎太夫は左頬を鉄砲で撃たれ、弾が歯茎に留まった。

吉田六郎太夫は数々の戦に出陣し、数多くの武勇を揚げたが、吉田六郎太夫が負傷したのは生涯でこの1度だけだった。

このとき、吉田又助は病気で戦いには参加していなかったが、少し回復したため、遅れて富来城攻めに加り、1人を討取った。

■筑前時代
黒田長政が筑前を拝領すると、父・吉田六郎太夫は黒田長政から1500石を拝領した。吉田又助は名前を吉田七左衛門と改め、後に2000石を賜った。

■黒田忠之に命名
黒田長政に嫡子・黒田忠之が誕生したとき、黒田長政は吉田六郎太夫と竹森石見の2人に名付けを命じた。

吉田六郎太夫と竹森石見の2人は、恐れ多きことと、再三にわたり辞退したが、黒田長政が強いて命じるので、吉田六郎太夫と竹森石見の2人は黒田忠之の幼名を「満徳君(万徳)」と名付けた。

慶長9年に黒田如水(黒田官兵衛)が死去すると、吉田六郎太夫は出家して「水安」と号したが、領地はそのまま隠居領として賜り、福岡城の南丸で城番を務めた。

元和元年、豊臣秀頼が反旗を翻した大坂夏の陣のとき、黒田忠之が福岡の兵を率いて大阪へと向かった。

父・吉田六郎太夫は隠居していたが、次男の吉田又助が「歩行に問題がなければ、直ちに黒田忠之の供をするべし」と進言するため、老体にムチを打って黒田忠之の供をして大阪へと向かった。しかし、播磨で大阪城の落城を聞き、引き返した。

その年(元和元年)の9月22日、吉田六郎太夫は自宅で病死した。享年77歳だった。

■吉田又助の最後
吉田又助は嫡子・吉田右馬太夫とと共に島原の乱の鎮圧に従軍した。寛永15年2月21日夜、原城への夜襲が行われた。

吉田又助が敵を討ち取ったとき、敵2人を討ち取った嫡子・吉田右馬太夫が首2個を駆け寄ってきた。

吉田又助は嫡子・吉田右馬太夫が首を2つも取ってきたので、嬉しげに見ようとしたところ、敵の鉄砲に打たれてしまった。

その後、島原の乱は鎮圧され、吉田又助は筑前に戻ったが、鉄砲で撃たれた傷が深く、討たれた日から30日後の寛永15年3月21日に死んだ。吉田又助は享年68歳だった。

黒田官兵衛や黒田家家臣の生涯は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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