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城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ黒田外伝「城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯」です。


■城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州を平定すると、黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)6郡12万石を拝領した。

黒田官兵衛の新領地となった豊前(福岡県東部)は、藤原鎌足の流れを汲む豊前宇都宮(別称「城井」)一族が16代・400年にわたり治めている土地で、未だ治まらぬ土地であった。

さかのぼること400年前、平安時代の末期、京都の朝廷で事務職をしていた宇都宮信房は、下野(栃木県)へ移り住み、御家人として源頼朝の陣営に加わった。

そして、宇都宮信房は「鬼界島の戦い」などで功績を挙げ、鎌倉幕府の樹立に貢献し、源頼朝より豊前(福岡県東部)の税所職・田所職などに任じられた。

こうして、宇都宮信房が実質的な豊前(福岡県東部)の支配者となり、豊前宇都宮氏の祖となった。

以降、宇都宮信房は関東に本拠地を置きならが、一族を豊前に派遣して豊前を支配した。この宇都宮信房を祖とする宇都宮氏を「豊前宇都宮氏」と呼ぶ。

豊前宇都宮氏4代目・宇都宮通房は、鎌倉幕府を牛耳る北条家と関係を強め、豊前(福岡県東部)で勢力を拡大。そして、4代目・宇都宮通房は、蒙古襲来(元寇)の防衛で活躍し、豊前(福岡県東部)・筑後(福岡県南部)の守護代にまで成長した。

また、4代目・宇都宮通房の頃に豊前に土着し、豊前国築城郡城井谷(福岡県築城町)を本拠地としたことから、豊前宇都宮氏は「城井(きい)」姓を名乗るようになった。
(注釈:豊前宇都宮氏は「豊前宇都宮氏」とも「城井氏」とも呼ばれるが、呼び方が違うだけである。)

7代目・城井冬綱(宇都宮冬綱)は南北朝時代の動乱で北朝に属していたが、その後、北朝が南朝に降服したため、城井氏は利権を奪われて衰退していった。

7代目・城井冬綱(宇都宮冬綱)の代で城井氏は衰退したものの、城井一族は豊前全土に広がっており、7代目・城井冬綱(宇都宮冬綱)は豊前の築城郡城井谷(福岡県築城町)に本拠地を置いて豊前を支配し続けた。

城井一族は豊前全土に広がっていたが、それぞれに独立性が強いため、あまり協力することがなく、戦国時代を迎えても、城井氏は戦国大名にまでは発展しなかった。

戦国時代に入ると、城井氏は、中国地方の毛利元就に対抗するため、豊後(大分県)のキリシタン大名・大友義鎮(大友宗麟)に属した。

そして、豊前宇都宮氏16代目・城井鎮房(きいしげふさ)は大友義鎮(大友宗麟)より「鎮」の1字を賜り、大友義鎮の娘を嫁に迎え、先祖伝来の城井谷の地を守った。

やがて、キリシタン大名・大友義鎮(大友宗麟)が勢力を拡大し、肥前(佐賀県)の龍造寺隆信、薩摩(鹿児島県)の島津義久と共に九州三国時代を迎えた。

天正6年(1578年)、大友義鎮(大友宗麟)は、北へと勢力を拡大する薩摩(鹿児島県)の島津義久を潰すため、日向(宮崎県)の地で決戦に及んだが、島津義久に大敗を喫した(耳川の戦い)。

耳川の戦いでの敗北が切っ掛けで、大友義鎮(大友宗麟)が衰退の一途をたどると、豊前(福岡県東部)の城井鎮房は大友義鎮に反旗を翻し、豊前に居る大友義鎮の勢力と対立した。

天正12年(1584年)には、島津義久が「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を下し、島津義久は九州統一を目前とする。

しかし、大友義鎮(大友宗麟)は島津義久の九州統一を阻むため、四国統一を果たした豊臣秀吉に助けを求めた。こうして、羽柴秀吉による九州征伐が天正14年(1586年)7月に始まった。

九州征伐のとき、城井谷城の城主・城井鎮房は島津義久に属していたが、大正15年(1587年)に豊臣秀吉が20万の大軍を引き連れて九州に上陸すると、城井鎮房はさしたる抵抗もせず、豊臣秀吉に帰順した。

城井谷城の城主・城井鎮房は豊臣秀吉に帰順したものの、病気と称して九州征伐軍に従軍せず、息子の城井朝房(きい・ともふさ)にわずかな兵を付けて九州征伐軍に派遣していた。

息子の城井朝房はわずかな兵であったが、九州征伐軍の道案内を兼ねた先鋒隊として活躍したため、その功績が豊臣秀吉に認められ、九州平定後の論功行賞(九州国分)で今治(愛媛県今治市)12万石が与えられた。これは、城井谷(推定3万石)から今治12万石への栄転であった。

(注釈:転封先には諸説があり、詳しいことは分からない。通説では今治12万石とされているが、かなりの加増なので創作の可能性が大きく、どこかに5万石程度を与えられたのではないかという説もある。)

しかし、父で城井谷城の城主・城井鎮房は「城井谷は源頼朝から拝領した先祖伝来の土地である」と言い、羽柴秀吉が命じた今治への国替えを拒否して朱印状を突き返した。

これに激怒した羽柴秀吉は、与えた今治12万石を没収してしまった。既に城井谷を含む豊前(福岡県東部)6郡が黒田官兵衛に与えられており、城井谷城の城主・城井鎮房は行き場を失ってしまったのである。

さて、天正15年(1587年)7月に黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)6郡に入国すると、城井谷城の城主・城井鎮房は退去を迫られたが、城井鎮房には行き場が無かった。

すると、豊前2郡を拝領した毛利吉成(毛利勝信)が、この状況を見かねて、城井家の旧領土の3村(田河郡赤郷)を城井鎮房に貸し、豊臣秀吉への仲裁を買って出た。

そこで、行き場を失った城井鎮房は、毛利吉成(毛利勝信)を頼りることにし、天正15年(1587年)7月9日に城井谷城を出て、毛利吉成から借りた田河郡赤郷柿原へと移ったのである。

■城井鎮房の城井谷奪還作戦
黒田官兵衛が豊前(福岡県東部)6郡に入部してまもなく、肥後(熊本県)の新領主となった佐々成政が太閤検地を断行したため、肥後(熊本県)で一揆が起きた(肥後国人一揆)。

佐々成政は単独で一揆を鎮圧する事が出来ず、豊臣秀吉に助けを求めると、豊前の黒田官兵衛らは豊臣秀吉からの命令を受け、肥後国一揆の鎮圧に向かった。

すると、豊前国上毛郡の豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)が、黒田官兵衛の留守を突き、黒田官兵衛に下った豪族・広津鎮種を攻撃し、反黒田の狼煙を上げたのである。

豊前6郡の留守を任されていた息子・黒田長政が上毛郡で起きた一揆の鎮圧に向かい、天正15年(1587年)10月1日に豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)を討ち取る。

ところが、天正15年(1587年)10月2日、黒田長政が一揆を鎮圧している隙を突き、毛利吉成の元に身を寄せていた城井鎮房が挙兵し、黒田官兵衛の家臣・大村助右衛門が守備する大平城を襲撃した。

城井鎮房が大平城を奪い返すと、城井谷の領民が旧領主・城井鎮房に味方し、城井鎮房は城井谷城と城井谷の領土を取り戻すことに成功したのである。

■城井鎮房と黒田長政の戦い
城井鎮房が城井谷を取り戻すと、豊前各地の豪族が立ち上がり、一揆を起こした。肥後国人一揆の鎮圧に向かっていた黒田官兵衛は、黒田長政からの報告を受け、豊前へと戻り、一揆に備えた。

城井鎮房の本拠地・城井谷は、「3本の弓があれば、大軍でも防げる」と言われる「三丁弓の岩」という難所があり、要所さえ守れば、数万の軍に匹敵するという天然の要害だった。

黒田長政は黒田官兵衛に内緒で出陣し、城井谷に籠もっている城井鎮房を攻めたが、地理に暗い城井谷での戦いで城井鎮房に敗れ、部下に守られて命からがら逃げ帰った。

(注釈:黒田長政の城井谷での戦いのあらすじとネタバレは「黒田長政と城井鎮房-城井谷の戦いのあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

城井鎮房が黒田長政を撃退すると、豊前各地の一揆が勢いづき、一揆は豊前の全土に広がった。

数日後、今度は有利な所で戦うとして、黒田長政は兵を率いて再び城井谷へと攻め寄せたが、城井鎮房は守りを固めて城井谷から出てこなかった。

そこで、黒田長政は城井谷の入り口にある神楽山の古城・神楽城を修復して向かい城とし、城井谷の通行を監視し、城井谷を封鎖した。

一方、城井鎮房も城井谷の入り口にある赤幡城(あかはたじょう)を修復し、壁兵助と城井宮内を赤幡城に入れて城井谷の入り口を固め、城井谷に引きこもった。

■城井鎮房の降伏
黒田官兵衛と黒田長政は、城井谷を封鎖している間に、豊前の各地で起こった一揆を鎮圧していく。

さて、豊前国の豪族のほとんどは豊前宇都宮氏(城井一族)から枝分かれした同族だったが、各地の豪族は独立性が強いため、連携して黒田官兵衛と戦うと言うことは無く、独自に抵抗していただけだった。

城井谷を封鎖された城井鎮房は、周囲の豪族からの支援も得られず、完全に孤立し、食料も尽きていった。

一方、黒田官兵衛は中国地方の毛利輝元・小早川隆景・吉川広家らの援軍を得て、天正15年(1587年)12月下旬までに豊前国の各地で起きた一揆を平定し、残る抵抗勢力は城井谷城に籠もる城井鎮房だけとなった。

毛利側は一揆の鎮圧と平行して、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を城井鎮房に派遣して交渉しており、城井鎮房は豊前国の一揆が鎮圧されると、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を通じて黒田官兵衛に降伏を願い出た。

天正16年正月、毛利の外交僧・安国寺恵瓊の弁護もあり、黒田官兵衛は「城井鎮房の息子・城井朝房と城井鎮房の娘・鶴姫の2人を人質に差し出すこと」を条件に城井鎮房の降伏を認めた。

(注釈:鶴姫を黒田長政の嫁に迎えたという説があるが、黒田長政は蜂須賀正勝の娘と結婚しているので、鶴姫と結婚する話は創作である。)

こうして、城井鎮房は黒田官兵衛に下ったが、豊臣秀吉は反抗した者を許さず、豊臣秀吉は黒田官兵衛に城井鎮房の処刑を命じたのである。

■城井鎮房の暗殺
さて、城井鎮房は、息子・城井朝房と娘・鶴姫の2人を人質に差し出して黒田官兵衛に降伏したものの、居城・城井谷城に籠もったままで、新年の挨拶にも来なかった。

そのようななか、天正17年(1589年)1月24日、豊臣秀吉は浅野弾正(浅野弾正)・加藤主計頭(加藤清正)・小西摂津守(小西摂津守)ほか2人を肥後(熊本県)に派遣する。

天正17年(1589年)2月、黒田官兵衛も豊臣秀吉からの命令を受けたため、人質の城井朝房を連れて肥後(熊本県)へ向かった。

すると、城井谷に引きこもっていた城井鎮房が、新年の挨拶を口実に、手勢200人ばかりを引き連れ、案内も無しに黒田官兵衛の居城・中津城へやってきた。

(注釈:全て黒田官兵衛が仕組んだ陰謀だとか、黒田長政が城井鎮房を執拗に招いたという説もあるが、城井鎮房が中津城へ来た理由は分からない。)

その知らせを聞いた黒田長政は、「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い、家臣を集めると「今日の酌には吉田又助が出ろ。城井鎮房を誅する合図は肴だ。肴を請えば、野村太郎兵衛が肴を運んできて、城井鎮房に1の太刀を打つべし。我は2の太刀を打つ」と命じた。

しかし、戦争で負傷して体が不自由だった家臣・吉田又助は「晩酌を仰せつかるのは誠に面目です。しかし、私は昨年、日向で左の膝口を切られ、命は助かったものの、陣中で止血も出来なかったため、体が弱っております。ただいま、少々の歩行は出来ますが、すねにも力が入らず、手にも力が入りません。大事な仕事を辞退するのは残念ですが、体の達者な者に仰せつけください」と辞退した。

すると、黒田長政は「汝の力が未だに戻らないのは目の前の事である。今夜の酌に手足の強さは必要ない。ただ心を静かにして動かざる事をよしとする。吉田又助に酌を任せること、辞退には及ばない」と言い、吉田又助に酌を命じた。

一方、城井鎮房は城下町にある合元寺(ごうがんじ)に従者を待機させ、数人の側近を連れて、中津城を訪れた。

黒田長政は、城井鎮房の側近に城外で待つように指示し、城井鎮房だけを城内へ招き入れて宴席をもうけた。城井鎮房は部屋に入ると、黒田長政と筋違いに2間ほど離れた場所の座った。

城井鎮房は身の丈6尺(約180cm)はある大男で、2尺(約60cm)の刀を腰に差し、2尺半(約84cm)の刀を後ろの壁に立てかけ、全く黒田長政を敬う様子も無く、降人とは思えぬ態度だった。

黒田長政は憤りを感じたが、色を隠して「酒を持て」と命じると、吉田又助が酌に立つ。黒田長政は先に酒を飲み干して、空いた盃を城井鎮房に賜る。

城井鎮房は黒田長政や吉田又助に目を配りながら、左手で盃を受け取り、左手で酒を受け、右手は常に脇差しの柄にあった。

吉田又助は城井鎮房に酒を注ぐとき、わざとなみなみと注いで盛り溢し、その隙に黒田長政が刀を取りやすいように黒田長政の方へと移動し、黒田長政と城井鎮房の間に座った。

黒田長政は打ち合わせ通り、「肴(さかな)」と合図を送るが、隣の部屋に聞こえなかったのか、隣の部屋で待機していた野村太郎兵衛は来なかった。

黒田長政は少しして、再び「肴」と叫ぶと、野村太郎兵衛はハッとして肴をもって城井鎮房の前へと進んだ。

そして、野村太郎兵衛は肴をのせた三方(膳)を城井鎮房に投げつけると、刀を抜いて城井鎮房の左の額から目の下まで切りつけた。

城井鎮房は心得たりとして脇差しを半分ほど抜いて立ち上がろうとすると、黒田長政はそばに置いていた刀を取り、城井鎮房を切りつけた。

黒田長政が左肩より横腹まで切ったので、さすがの城井鎮房も倒れて横たわった。

野村太郎兵衛は刀を横たえて片手を突き、「日頃の御本望にそうろう。今、一太刀遊ばしたまえ」と告げると、黒田長政は立ち上がり、城井鎮房に止めを刺して腰のところで城井鎮房を切断した。

そして、黒田長政が「城井鎮房の家人を殺せ」と家臣に下知すると、家臣・吉田又助は櫓に駆け上がって早鐘を打ち鳴らし、城内で待機していた部下に合図を送る。

黒田家家臣は城の外で待機していた城井鎮房の家人を討ち、合元寺で待機していた城井鎮房の従者200人をことごとく討ち取った。

さらに、黒田長政は手勢を率いて城井鎮房の本拠地・城井谷へと攻め込み、豊後へと逃げようとした城井鎮房の父・城井長房を討ち取り、城井鎮房の一族13人を捕らえた。

黒田長政はその日のうちに中津へ戻り、城井一族13人をその日のうちに中津川で磔にした。

このとき、城井朝房の妻・竜子は家臣の助命嘆願によって命を助けられ、宝珠山へと落ち延び、その後、実家の秋月家に戻った。

(注釈:城井朝房は城井鎮房の子で、妻・竜子は筑前・秋月家の秋月種実の娘です。)

一方、天正17年(1589年)4月23日、城井鎮房を暗殺に成功したという知らせが肥後(熊本県)へ出張中の黒田官兵衛に届くと、黒田官兵衛と加藤清正は人質の城井朝房を殺した。城井朝房は黒田官兵衛に呪いの言葉を残して死んだという。

その後、黒田官兵衛・黒田長政親子は殺した城井鎮房・城井朝房の亡霊に怯え、中津城に城井神社を作り、城井一族を祭った。

(注釈:黒田長政が城井鎮房を暗殺したあらすじとネタバレは「黒田長政が城井鎮房を暗殺-合元寺の赤壁伝説のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

■人質の鶴姫
さて、黒田家に人質として出されていた城井鎮房の娘・鶴姫は、投獄されていた。このとき、鶴姫は牢獄で磔の杭を打ち込む音を聞き、「なかなかに、きいて果てなん、唐衣、我がために織る、はたものの音」という辞世の句を詠んだ。

[意味:「きいて(聞いて)果てなん」が「城井が果てる」という意味で、「我がために織る、はたものの音」が「私を磔にするために打っている杭の音」という意味である。]

後に鶴姫の辞世の句を聞いた黒田官兵衛は、豊臣秀吉に鶴姫の助命を願い出ると、豊臣秀吉は鶴姫を哀れんで、助命を認めた。釈放された鶴姫は、尼となって城井谷の山奥に住み、城井一族の冥福を祈りながら天命を全うした。

(注釈:黒田官兵衛・黒田長政が、鶴姫を磔にしたという説もある。)

こうして、200年に渡って豊前を支配していた豊前宇都宮氏(城井一族)は、黒田官兵衛に滅ぼされたのである。

■豊臣秀吉の後悔
城井家(宇都宮家)には、外敵征伐の必勝を祈願する「艾蓬の射法」という弓法が伝わっており、神功皇后が朝鮮半島を征伐した「三韓征伐」で「艾蓬の射法」が行われたとされる。

しかし、「艾蓬の射法」は代々、当主だけが伝承する一子相伝の秘法だったため、城井家の滅亡により、「艾蓬の射法」も消滅した。

後に豊臣秀吉は唐入り(朝鮮出兵)を行うさい、神功皇后に習って「艾蓬の射法」を行おうとしたが、城井家は滅亡しており、「艾蓬の射法」が行えなかった。このため、豊臣秀吉は城井家の滅亡を悔やんだという。

■豊前宇都宮家(城井家)の復興運動
200年に渡って豊前を支配していた豊前宇都宮氏(城井一族)は、黒田官兵衛に滅ぼされた。

しかし、江戸時代の初期に城井鎮房の子孫を名乗る宇都宮左近が、城井家の旧家臣と共に、名門・宇都宮家(城井家)を復興するために宇都宮家(城井家)復興運動を起こした。

豊前宇都宮氏(城井一族)は黒田長政に攻められて滅んだが、命を助けられて秋月家に戻った妻・竜子が城井朝房の子供を妊娠していたといい、妻・竜子が城井朝末を産んで豊前宇都宮氏(城井一族)の血を繋いだ、とされる。

そして、江戸時代に入ると、城井朝末の子孫を名乗る宇都宮左近という人物が、城井家の旧家臣と共に、名門・宇都宮家(城井家)を復興するために宇都宮家(城井家)復興運動を起こした。

宇都宮左近は宇都宮家(城井家)復興運動で、大量の文書や軍記を制作したのだが、ほとんどは宇都宮家(城井家)を復興するために捏造した偽文書であるため、宇都宮家(城井家)側が作成した文書や軍記には信憑性が疑われる部分がある。

なお、宇都宮家(城井家)復興運動の効も無く、宇都宮家(城井家)は大名には復帰できず、その後、宇都宮家(城井家)は復完全に滅んだ。

城井鎮房と黒田長政の戦いや黒田官兵衛の情報については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

コメント

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鶴姫・・・磔になってなかったんだ・・・
よかった・・・
と、思いました。
毛屋主水のところにお嫁にきてくれたという城井鎮房の娘とは、誰のことか、ご存知ありませんか?
「黒田家詰め合わせ」1万ヒット強で、無事終了しました。
お力添えありがとうございました。

山江まろん : 2014年05月08日(木)

■山江まろんさんへ
最終回を迎えたんですね。お疲れ様です。

毛屋主水と結婚したのは、城井鎮房の家臣・鬼木掃部の娘で、娘の名前は「秋」と言います。

管理人 : 2014年05月08日(木)

太閤さんも、この時期は、だいぶ人の気持ちなど汲まなくなってきていたのですね。

黒田親子も、苦渋の選択をしたのだと思います。
毛屋主水のお嫁さんについては、訂正をいたしました。
お教えいただき、まことにありがとうございました。

山江まろん : 2014年05月10日(土)

長政の誤植で、肥後にいた官兵衛が暗殺現場で酒を飲み干したり、暗殺後に亡霊を恐れていたことになっていますね。

名無し : 2014年08月18日(月)

ご指摘ありがとうございます。一部、黒田官兵衛と黒田長政の名前が入れ替わっていたので訂正しました。

管理人 : 2014年08月18日(月)

先週のNHK大河ドラマ黒田官兵衛を鑑賞している時です。以前、佐世保に居住している城井叔父さんが「福岡に行き、城井家の先祖を確認にいつたとばい」との言葉を思い出し、ネットで城井一族の歴史を拝見しました。
権力争い・領土争いには平和がない事を如実に、城井一族の歴史で確認させてもらいました。 私の母89歳は、城井一族の血筋が流れているのか、年齢にいわわず、いまだに
前向きな生き方をしております。週に2回~3回、一人でカラオケ三昧。孫・ひい孫と
買い物に行く、明るく・元気な母親です。又、世界一、尊敬出来る母です。

江口 繁 : 2014年09月04日(木)

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