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豊臣秀吉の九州征伐と黒田官兵衛のキリスト教の棄教

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「豊臣秀吉の九州親征」です。


このページは「軍師・黒田官兵衛の九州征伐」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■豊臣秀吉の九州親征
豊臣秀吉が九州親征を決定すると、黒田官兵衛は豊臣秀吉の到着に先だって、各地の豪族に豊臣秀吉の威風を流布し、「羽柴秀吉に味方すれば、領土は保障される。羽柴秀吉が到着したら降服を申し出ろ」という怪文書をばらまいた。

天正15年(1587年)3月29日、豊臣秀吉・豊臣秀長が計20万の軍勢を引き連れて豊前の小倉(福岡県北九州市小倉)に到着した。

小倉に入った豊臣秀吉は、軍を2手に分け、豊臣秀吉は10万の軍を率いて九州を西側(西街道)から南下し、豊臣秀長は10万の軍を率いて九州を東側(東海道)から南下を始める。豊臣軍は九州の西街道と東街道の2手から薩摩(鹿児島県)の島津義久を目指した。

軍師・黒田官兵衛は毛利軍と共に豊臣秀長の先鋒隊を務め、九州を東側(東街道)から薩摩を目指して南下する。

さて、豊臣秀吉が南進を開始すると、黒田官兵衛が事前に流した怪文書の効果により、続々と豊臣秀吉の帰順する者が現れ、北九州は豊臣秀吉の勢力下となり、九州の勢力図は一気に塗り替えられた。

対する島津義久は、北九州を放棄し、薩摩(鹿児島県)・大隅(鹿児島県)・日向(宮崎県)の本拠地3国で羽柴秀吉の軍を迎え撃つ作戦に出た。このため、島津軍は豊後(大分県)からも撤退した。

■黒田官兵衛と高城の戦い
天正15年(1587年)3月、黒田官兵衛を先鋒とする豊臣秀長の軍勢は、豊後(大分県)から撤退する島津軍を追撃する形で日向(宮崎県)へと侵攻した。

そして、天正15年(1587年)4月6日、豊臣秀長の軍勢は、日向(宮崎県)にある耳川を渡り、島津家の名将・山田有信が守る日向の高城(宮崎県児湯郡木城町)を、8万の軍勢で取り囲んだ。

さて、日向(宮崎県)の高城は、天正6年(1578年)に豊後のキリシタン大名・大友宗麟の大軍に攻められたことがあった。

しかし、高城は日向(宮崎県)でも有数の名城で、高城の城主・山田有信は少数の兵で大友宗麟の大軍を追い返した。

島津義久は、大友宗麟を追い返した時と同じように、高城を防衛ラインとし、高城で豊臣秀長の軍を追い返すつもりであった。

ところが、豊臣秀長は高城を力攻めにせず、8万の大軍で高城を取り囲み、高城の周りに砦を築いて兵糧攻めに出たのである。

名将・山田有信といえど、8万の大軍に包囲されて兵糧攻めにされたのでは、なすすべは無かった。

知らせを受けた薩摩(鹿児島県)に居る島津義久は、山田有信の窮地を救うため、島津家久・島津義弘を従え、主力部隊2万の兵を引き連れて高城を目指すのであった。

■黒田官兵衛と根白坂の戦い
さて、高城から南方に1里の場所に根白坂という要所があり、軍師・黒田官兵衛は蜂須賀家政・尾藤知宣・宮部継潤らを率いて根白坂に陣を敷いていた。

島津義久は2万の軍勢を率いて高城の援軍に駆けつけたが、根白坂に黒田官兵衛らが布陣しており、高城にはたどり着けず、黒田官兵衛らと対峙する。

島津義久は豊臣秀長から高城の明け渡し要請を受けたが、これを拒否し、天正15年(1587年)4月6日深夜、根白坂を守る豊臣軍の宮部継潤の陣に奇襲攻撃をかけた。

しかし、宮部継潤は、柵を築いて奇襲攻撃に備えており、島津軍は反対に大打撃を受けてしまった。それでも怯むこと無く島津軍は、宮部継潤の部隊に突き進み、宮部継潤を攻め立てた。

宮部継潤の窮地を知った豊臣秀長は、宮部継潤の援軍に向かおうとしたが、軍監(軍師)の尾藤知宣が島津軍の策略を警戒して、豊臣秀長に出陣を中止させた。

豊臣秀長の援軍中止により、宮部継潤は絶体絶命の危機に追い詰められてしまう。

黒田官兵衛は、この窮地を打開するため家臣・村上彦右衛門に命じて「豊臣秀長が6万の兵を率いて援軍に来る」という嘘の情報を流すと、島津義弘の陣を目がけて突撃した。

豊臣秀長が援軍に来るという情報によって、宮部継潤の兵は持ち直した。一方、援軍の噂を知った島津軍は動揺する。

そこへ、黒田官兵衛が島津義弘の軍勢に突撃して島津義弘を撃破する。島津義久は、島津忠隣など多くの武将を失い、敗走した。(根白坂の戦い)

軍師・黒田官兵衛は、このまま島津軍を追撃して島津義久の本拠地・鹿児島まで攻め入るべきだと進言したが、軍師・尾藤知宣が島津軍の伏兵を警戒して追撃に反対したため、豊臣秀長は追撃を行わなかった。

さて、島津義久が薩摩へと逃げ帰ると、非戦と唱えていた島津一族の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が自ら人質になることを買って出た。

「根白坂の戦い」で大敗して戦意を喪失した島津義久は、伊集院忠棟の意見を取り入れ、伊集院忠棟を人質として羽柴秀長に差し出し、和議を願い出た。

そして、島津義久の降伏が認められると、籠城していた高城の城主・山田有信も城を明け渡し、天正15年(1587年)4月下旬に日向(宮崎県)方面の戦いは終わった。

一方、九州地方の西側から南下していた羽柴秀吉の軍勢は、天正15年(1587年)4月下旬に薩摩へと侵攻し、薩摩の川内(鹿児島県薩摩川内市)にまで到達した。

天正15年(1587年)4月28日、豊臣秀吉軍の小西行長・脇坂安治・九鬼嘉隆らが、桂忠詮が守る平佐城(鹿児島県薩摩川内市平佐町)への攻撃を開始する(平佐城の戦い)。

平佐城の桂忠詮は、九鬼嘉隆らを相手取り、孤軍奮闘したが、既に降伏した島津義久から停戦命令が届いたため、羽柴秀吉に降伏し、全ての戦が終わった。

その後、島津義久は、道中で立ち寄った伊集院で断髪して出家し、名前を「龍伯(りゅうはく)」と改めると、天正15年(1587年)5月8日に豊臣秀吉が滞在する泰平寺で羽柴秀吉に謁見し、降伏を願い出た。

このとき、島津義久は処刑されることを覚悟し、磔にする木を持参して羽柴秀吉に謁見した。島津義久は、磔の木を金色に塗装していたとも伝わる。

豊臣秀吉は派手な演出を好んだため、磔の木を持参した島津義久を許し、本領を安堵した。

後に、独眼竜正宗こと伊達政宗が白装束で豊臣秀吉に謝罪したのは、磔の木を持参して謝罪した島津義久の演出を参考にしたと言われる。

さて、こうして、島津義久が降伏したため、豊臣秀吉による九州平定は終わり、豊臣秀吉は凱旋の途に就いた。

豊臣秀吉が九州を平定したのは天正15年(1587年)、黒田官兵衛が42歳のことであった。

■黒田官兵衛と九州国分
九州を平定した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月7日に筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)に入った。豊臣秀吉は箱崎に20日間留まり、この間に九州征伐の論功行賞を行っている(九州国分)。

この論功行賞で、豊臣秀吉は豊前(福岡県東部)8郡のうち6郡12万石を黒田官兵衛に与え、残り2郡を毛利吉成(毛利勝信)に与えた。

ただ、黒田官兵衛が与えられた豊前(福岡県東部)6郡のうち、妙見岳城と竜王城の2城は黒田官兵衛の領地から除外された。

そして、除外された妙見岳城は大友家の一族・田原親賢(田原紹忍)に与えられ、竜王城は大友家の一族・田原親盛に与えられた。

こうして、黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)6郡を賜り、播磨(兵庫県)4万石の弱小大名から、12万石(実質は18万石とも言われている)の大名にまでのし上がったのである。これは黒田官兵衛が42歳のことであった。

なお、四国征伐・九州征伐での黒田官兵衛の活躍を考えると、12万石では褒美が少ない、とされている。これについては、「羽柴秀吉は黒田官兵衛の才能を恐れていたため、多くの領地を与えなかった」という説もあるが、「12万石は豊臣秀吉の家臣と比べて特別に少ないとわけでは無い」という説もある。

■黒田官兵衛とキリスト教の棄教
天正15年(1587年)6月19日、筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)に滞在する羽柴秀吉は、九州征伐の論功行賞の一方で、突如として宣教師ガスパル・コエリョにバテレン追放令を突きつけた。バテレン追放令(禁教令)とは、キリスト教の布教を禁止する命令である。

羽柴秀吉は織田信長の影響を受けており、キリスト教と友好的で、宣教師ガスパル・コエリョらを建築中の大阪城に招いて、大阪城を案内するなどしていた。

そして、豊臣秀吉はバテレン追放令を発令する前日もポルトガル船に乗って船上パーティーを楽しんでいた。

しかし、豊臣秀吉は九州の地で突如としてバテレン追放令(禁教令)を発令した。宣教師ガスパル・コエリョらにとっても、バテレン禁止令は全く予期していない事だった。

豊臣秀吉がバテレン追放令を出した理由には諸説があり、「豊臣秀吉が九州で勢力を拡大するキリスト教を目の当たりにして恐れた」「キリスト教が日本人を奴隷として貿易していたため、豊臣秀吉が激怒した」などいう理由が一般的である。

黒田官兵衛は高山右近の影響を受けて、天正11年(1583年)ごろに洗礼を受けていた。黒田官兵衛は「シメオン」という洗礼名を持つ、キリシタン大名であるが、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令すると、黒田官兵衛はいち早くキリスト教を捨てた。

しかし、キリシタン大名の高山右近は、最後までキリスト教を捨てなかったため、豊臣秀吉の怒りを買い、領地没収のうえ追放されてしまう。

ただ、豊臣秀吉のバテレン追放令(禁教令)は、それほど厳しいものではなく、黒田官兵衛は名目上はキリスト教を棄教したが、実質的にはキリスト教徒のままだったと伝わる。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛と城井谷城の城井鎮房のあらすじとネタバレ」へ続く。

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