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山中城の戦いと一柳直末の死、小田原評定と石垣山一夜城

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「山中城の戦いと一柳直末の死、小田原評定と石垣山一夜城あらすじとネタバレ」です。


このページは「軍師・黒田官兵衛の小田原征伐のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■小田原征伐-山中城の戦い
天正18年(1590年)3月28日、豊臣秀吉は長久保城(岡県駿東郡長泉町)に入って郡議を行い、山中城・韮山城への攻撃を決定し、豊臣秀次に山中城攻めを命じ、織田信雄に韮山城攻撃を命じた。そして、徳川家康には竹浦方面への進軍を命じた。

天正18年(1590年)3月29日の早朝、豊臣秀次は中村一氏(中村式部少輔)を先鋒に、7万の大軍で箱根の要所にある山中城を攻めた。

先鋒・中村一氏(中村式部少輔)の家臣・渡辺勘兵衛と藪内匠の2人は、中山城に先駆けして高名を挙げる。山中城は大改修によって要塞と化していたが、7万の大軍を相手に守り通す事は出来ず、激戦の末、同日の午前に落城する。(山中城の戦い)

中山城の戦いで、中山城主・松田康長と間宮康俊(間宮豊前)の2人が自害し、北条氏勝(北条左衛門大夫)は中山城を脱出して玉縄城へと逃げた。朝倉景澄(朝倉能登)も落ち延びた。

さて、山中城は半日で落としたものの、豊臣秀吉が信頼していた家臣・一柳直末が戦死しており、豊臣側も大きな被害を受けた(注釈:一柳直末は豊臣秀吉の家臣で、黒田官兵衛の妹婿である)。

黒田官兵衛が食事中の豊臣秀吉に一柳直末が戦死したことを報告すると、人前で泣くことのない羽柴秀吉が「一柳直末は関東にも代えがたい武将であった」と大いに悲しんだという。

一柳直末の家督は一柳直末の弟・一柳直盛が引き継いだ。一柳直末の幼い息子・松寿は黒田官兵衛が引き取り、養子に迎え、後に黒田性を与えた(注釈:松寿の母親は黒田官兵衛の妹)。

さて、山中城が落城した日、徳川家康は箱根にある鷹之巣城を攻撃し、同日中に鷹之巣城を落城させた。

一方、豊臣軍の織田信雄は4万の大軍で韮山城を攻めたが、韮山城の城主・北条氏規は北条家でも有数の名将で、北条氏規はわずかな手勢で韮山城を守り通した。

豊臣秀吉は韮山城への力攻めを諦め、わずかな兵を残して韮山城を包囲すると、小田原城へと兵を進めたのであった。

■黒田官兵衛の小田原攻め
豊臣秀吉は山中城を通過して、天正18年(1590年)4月1日に神奈川県足柄下郡箱根町湯本に到着すると、早雲寺を接収して本陣とした。

鷹之巣城と足柄城とを落とし豊臣軍の先方隊は、天正18年(1590年)4月3日に小田原城へと到達し、小田原城の包囲を開始した。

一方、豊臣秀吉を迎え撃つ北条氏政は、小田原城を改修して長さ9kmの外郭で城下町を取り囲んだ「総構え」という作りであった。さらに、北条氏直は、関東8州に「総動員」を号令し、1年でも2年でも籠城できる体制を作り上げていた。

小田原城は、上杉謙信や武田信玄を撃退した時よりも強固なものになっており、城攻めを得意とする豊臣秀吉が22万の大軍を持ってしても、小田原城には手が出なかった。

北条氏直は守りに徹しており、豊臣軍が攻撃を仕掛けても、小田原城からの反撃は無く、ただ、いたずらに時間が過ぎた。

困った豊臣秀吉が小早川隆景に相談すると、小早川隆景は「毛利元就が尼子義久を富田城に包囲したとき、正面からの攻撃を避け、持久戦を取り、主君と家臣を引き離す作戦に出ました。小田原の情勢を見るに、持久戦が適当です。しからば、城攻めを止めて守りを固め、兵士には長陣を覚悟させ、兵士に音楽をさせて敵の気をそぐ事が大事です」と助言した。

小早川隆景の策を採用した豊臣秀吉は、各陣営に防備を固めさせる一方で、家臣・堀秀政に寝返り工作を命じた。

また、豊臣秀吉の命令により、小田原城を包囲する豊臣側の陣中には娯楽施設が建設され、連日連夜にわたる宴会が始まった。見世物小屋や遊女小屋など出来上がり、農園を始める兵士も現れた。

しかし、小田原城から攻めてくる気配は無く、北条氏直の重臣・松田憲秀も小田原城内に娯楽施設を設け、兵士の士気が落ちないように配慮した。

そのようななか、側室・茶々(淀君)に会いたくなった羽柴秀吉は、側室・茶々(淀君)を呼び寄せるため、家臣に「兵士の士気を保つために妻を呼び寄せよ」と命じた。

そして、豊臣秀吉は正妻・寧々(北政所)に「寧々(北政所)を呼び寄せたいのは山々だが、寧々(北政所)には大阪城を守る仕事がある。仕方が無いので、茶々(淀君)を送れ」と手紙を送り、側室・茶々(淀君)を呼び寄せた。

[注釈:当時は戦場へ女を連れて行くことは不吉な事とされていたが、羽柴秀吉は習わしを破ってでも、茶々(淀君)に会いたかったようである。]

■松田憲秀の寝返り、松田直秀の裏切り
さて、豊臣秀吉の命令を受けて寝返り工作に当たっていた堀秀政は、北条氏直の重臣・松田憲秀から内応の約束を取り付けた。

そして、豊臣軍が天正18年(1590年)6月16日に小田原城を攻めれば、松田憲秀が内側から城門を開ける手はずとなっていた。

松田憲秀が計画を実行に移すため、内応の計画を家族に打ち明けてると、長男・笠原政晴は内応に賛成したが、次男・松田直秀は「代々、北条家の重臣を務める松田家が、北条家を裏切るわけにはいきません」と内応に反対した。

松田憲秀は次男・松田直秀を牢屋に監禁して、内応の準備を進めたが、次男・松田直秀は牢屋を抜け出して主君・北条氏直に松田憲秀の内応計画を密告した。

その結果、北条氏直は松田憲秀と長男・笠原政晴の2人を捕らえて投獄した。こうして、豊臣秀吉の内応工作は失敗に追った。

(注釈:松田憲秀の子孫からの情報提供によると、松田家に伝わる資料には「多くの兵、庶民を無駄に死なさぬ為に内通することにした」と書かれており、松田憲秀は私利私欲で裏切ったのではなく、大勢の命を守る為に内通したのではないかとのこと。)

■小田原評定と石垣山一夜城
天正18年(1590年)6月、小田原城で小田原評定が行われていたが、「抗戦」か「降服」かで意見が割れ、結論が出なかった(小田原評定)。

この時の小田原評定が故事となり、結論の出ない会議を延々と続けることを「小田原評定」と言う。

一方、豊臣秀吉は小田原城から西へ3kmの地点にある笠懸山(かさがけやま。後に石垣山と呼ばれるようになる)に、密かに城(石垣山城)を建設していた。

豊臣秀吉に内通した北条氏直の重臣・松田憲秀が、笠懸山が要地である事を豊臣秀吉に教えていたのだ。

石垣山城の建設は木々に隠れて行われたため、北条側は石垣山城の建設に全く気づいていなかった。

天正18年(1590年)6月25日に石垣山城が完成すると、石垣山城を隠していた木が夜のうちに切り倒され、笠懸山に石垣山城が姿を現した(石垣山一夜城)。

実際には石垣山城の建築に80日間を費やしたが、北条側にしてみれば、一夜にして笠懸山に城が出現したため、北条氏政は「一夜にして城を作るとは。豊臣秀吉は、天狗なのか、神なのか」と驚いた。

このため、石垣山城は俗に「石垣山一夜城」と呼ばれる。北条氏政は、豊臣秀吉の石垣山一夜城に驚き、豊臣秀吉に降服することを決めた、とも言われている。

■独眼竜・伊達政宗の謝罪
豊臣秀吉の要請を受けた東北諸藩も小田原征伐に駆けつけていた。米沢(山形県)の伊達政宗も要請を受けていたが、お家騒動も重なり、小田原征伐に参加していなかった。

しかし、天正18年(1590年)6月、伊達政宗は、豊臣政権で五奉行の筆頭を務める浅野長政から小田原征伐への派兵を催促され、豊臣秀吉が激怒している事を知ると、ようやく、小田原征伐に参加することを決める。

天正18年(1590年)6月5日、小田原に着いた伊達政宗は、建築中の石垣山城で豊臣秀吉に面会し、遅刻を謝罪した。

豊臣秀吉は伊達政宗の近くを叱責したが、切腹を覚悟した伊達政宗は白装束(死装束)で現れたため、豊臣秀吉はその罪を許し、伊達政宗は切腹を免れた。

(注釈:九州征伐で豊臣秀吉に負けた島津義久は、自分が磔になる木を持参して豊臣秀吉に謝罪すると、派手好きの豊臣秀吉は島津義久を助命した。伊達政宗はこの島津義久のエピソードを知っており、白装束で現れたと言われる。)

(注釈:島津義久が豊臣秀吉に降伏する九州征伐のあらすじとネタバレは「豊臣秀吉の九州征伐と黒田官兵衛のキリスト教の棄教」をご覧ください。)

こうして、米沢(山形県)の伊達政宗も豊臣秀吉の傘下に入り、豊臣秀吉に抵抗する勢力は小田原城の北条家だけとなったのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛の小田原城攻めのあらすじとネタバレ」へ続く。

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