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軍師・黒田官兵衛の小田原城攻め

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛の小田原城攻めのあらすじとネタバレ」です。


このページは「山中城の戦いと一柳直末の死、小田原評定と石垣山一夜城」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■関東の連れ小便
伊達政宗が豊臣秀吉に謝罪して豊臣秀吉の軍門に下ったが、小田原城に籠もる北条氏政は未だに抵抗を続けていた。

しかし、いくら籠城を続けても北条氏政には勝ち目が無かった。上杉謙信や武田信玄を押し返した名城・小田原城であったが、その時とは状況が変っており、籠城戦は通用しなくなっていたのだ。

以前は農民も兵士として戦争に参加しており、秋には稲狩りをするために自国へ帰らなければならないため、籠城側は秋まで守り抜けば籠城戦に勝つことが出来た。

しかし、豊臣秀吉は刀狩り令を発令して農兵分離を進めており、兵士と農民が別れていた豊臣軍は秋が来ても稲刈りの為に帰る必要は無かったのだ。

豊臣軍の別部隊は、小田原城を包囲している間に、別部隊が関東8州にある小田原城の支城を次々と落とし、小田原城は孤立していく。

このとき、石田三成は2万3000の兵を率いて小田原城の枝城・忍城(埼玉県行田市)を攻めた。

石田三成は、忍城に水攻めを行ったが水攻めに失敗し、忍城を守る成田長親はわずか3000の兵で忍城を守り抜いた。映画「のぼうの城」のモデルが、この忍城である。

そのようななか、豊臣秀吉は徳川家康に、関東8州を与えることを約束した。このとき、豊臣秀吉は徳川家康と一緒に小田原城に向かって連れ小便をしながら、関東8州を与える事を約束したため、このエピソードは「関東の連れ小便」と呼ばれている。

天正18年(1590年)6月23日には、八王子城が落城し、天正18年(1590年)6月24日には、籠城を続けていた韮山城の北条氏規が徳川家康の説得を受けて開城する。

天正18年(1590年)6月25日には石垣山城が完成し、石垣山に石垣山城が現れた(石垣山一夜城)。

北条氏政は、一夜にして石垣山に現れた石垣山城を見て、「豊臣秀吉は、天狗なのか、神なのか」と驚いた。

■黒田官兵衛の小田原征伐
さて、豊臣秀吉は宇喜多秀家に命じ、北条氏房(北条安房守)に南部酒や鮮鯛を陣中見舞いに送ると、北条氏房(北条安房守)は返礼として江戸酒を送ってきた。

宇喜多秀家は返礼を好機とみて、北条氏房(北条安房守)に使者を送り、「降伏すれば伊豆・相模・武蔵の3カ国を安堵する」と説得し、和睦を勧めた。

これを受けた北条氏房(北条安房守)は、北条家の当主・北条氏直を説得したが、北条氏直は和睦の勧めを全く聞き入れなかった。

豊臣秀吉は石田三成・羽柴雄利に命じて八方手を尽くして降伏を勧めたが、北条氏直の知るところとなり、降伏工作は失敗に終わった。

豊臣秀吉は内応を約束した松田憲秀の手引きで小田原城に攻め入ろうと考えていたが、松田憲秀は次男・松田直秀の内部告発により北条氏直に捕まってしまった。万策が尽きた豊臣秀吉は、軍師・黒田官兵衛に相談する。

すると、黒田官兵衛は豊臣秀吉に「北条氏直を説得できるのは、徳川家康を置いて他に居ない。徳川家康は関東の事情に精通し、北条氏直と親戚関係にあり、和睦を斡旋するのに最適です」と答えた。

北条家の当主・北条氏直の正室は、徳川家康の娘・督姫で、北条氏直と徳川家康は同盟を結んでおり、親密な関係にあったのだ。

豊臣秀吉は納得し、黒田官兵衛を徳川家康の元に派遣するが、徳川家康は既に「関東の連れ小便」で豊臣秀吉から関東8州をもらい受ける約束を得ているため、「親戚ゆえに説得は難しい」と説得を固辞した。

黒田官兵衛は豊臣秀吉に徳川家康の辞退を報告し、北条氏直の説得を願い出ると、豊臣秀吉は喜んで黒田官兵衛に北条氏直の説得を任せた。

■軍師・黒田官兵衛の小田原城攻め
北条家の説得を引き受けた黒田官兵衛は、家臣・井上平兵衛(井上九郎右衛門の弟)に命じて、北条氏房(北条安房守)の所に矢文を射て和睦を勧めると、北条氏房(北条安房守)は黒田官兵衛の矢文を受けて、北条氏政に和睦を勧めた。

そして、黒田官兵衛は頃合いを見計らって、家臣・井上平兵衛(井上九郎右衛門の弟)を北条氏政に遣わし、美酒2樽と漬魴10尾を贈り、籠城の鬱憤を慰問した。

すると、北条氏政は、返礼として黒田官兵衛に鉛と弾薬を各10貫目を送り、「城攻めの時に使ってください」と告げた。これは、小田原城には武器弾薬が十分にある事を示している。

黒田官兵衛は北条氏政からの返礼を好機とみて、単身で小田原城に乗り込んだ。このとき、黒田官兵衛は肩絹に袴を着て、刀は帯びず、丸腰であったため、北条家の家臣は黒田官兵衛の剛胆にして洒落なるに驚いた。

こうして小田原城に乗り込んだ黒田官兵衛は、北条氏政・北条氏直と面会し、「北条家の未来は、烈火をもって鍋の中の魚を煮るがごとくなり。豊臣秀吉と和睦し、伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・武蔵(埼玉県)の3国を領有して、先祖の霊祭を存続するべきこそ、北条家100年の大計である」と説得した。

東北の伊達政宗も豊臣秀吉に謝罪しており、小田原城の支城は落城して小田原城は孤立し、支城を守っていた北条一族も豊臣秀吉に降伏していた。

黒田官兵衛は誠実に懇々と説得するが、北条氏政は「戦わずに降ったとなれば、北条家の恥である」として降伏を拒否した。

しかし、黒田官兵衛が単身で小田原城に乗り込み、北条氏政・北条氏直らを説得したことにより、小田原城内には降伏の噂が流れた。

これを好機とみた豊臣秀吉が小田原城に偽情報を流すと、小田原城では、親子が疑いあい、兄弟が疑いあうほどの疑心暗鬼が生じ、大混乱に陥った。

すると、天正18年(1590年)7月、北条氏直が小田原城を抜け出し、義父の徳川家康に降服の仲介を頼んだ。

しかし、徳川家康は既に関東8州をもらい受ける約束を得ており、仲介を断ったため、北条氏直は黒田官兵衛を通じて豊臣秀吉に、兵士の助命を条件に降伏を願い出た。

豊臣秀吉は、大いに喜び、北条氏直の降伏を認め、兵士を助命を約束した。

天正18年(1590年)7月5日、北条氏政は徹底抗戦するつもりであったが、北条氏直が城を出て降服したため、小田原城は内部から崩壊し、ついに観念した北条氏政・北条氏照も小田原城を出て、豊臣秀吉に降服した。

■小田原征伐の仕置き(北条家の仕置き)
北条家が降伏すると、豊臣秀吉は戦争の責任として北条氏政と北条氏輝に切腹させ、その首を京都にある一條の戻橋に晒した。

北条氏直は徳川家康の娘婿で、黒田官兵衛を通じて降伏してきたこともあり、切腹は免れ、高野山へ追放となった。北条氏勝・北条氏規・北条氏忠も北条氏直とともに高野山へと移った。

北条氏直はこれに感謝し、北条家の家宝である名刀「日本一文字」、日本三大陣具の1つ「北条の白貝」、貴重本「東鑑」の3つの家宝を黒田官兵衛に贈った。

翌年の天正19年(1591年)、黒田官兵衛は北条家が滅びるのを哀れみ、豊臣秀吉に北条氏直の助命を願い出た。

豊臣秀吉は助命嘆願を受け入れ、北条氏直を許し、河内(大阪府)に1万石を与え、大名に復帰させた。しかし、北条氏直は天正19年(1591年)11月に疱瘡が悪化して死亡した。北条氏直の死後、養子の北条氏盛が跡を継き、北条家は存続した。

こうして、豊臣秀吉による小田原征伐は幕を閉じたのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛-松田直秀の処刑と松田憲秀の切腹のあらすじとネタバレ」へ続く。

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