スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


小河伝右衛門(小河信章)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛を実話で紹介する「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ黒田24騎「小河伝右衛門(小河信章)の生涯」です。


■小河伝右衛門(小河信章)のwiki
小河伝右衛門は、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人で、豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)のとき、少数で明(中国)の大軍を追い返し、豊臣秀吉に認められた。

■小河伝右衛門(小河信章)の生涯
小河家は姫路周辺を拝領した官人で、播磨の守護大名・赤松家に目代として仕え、小河良利の時代は小寺政職に仕えていた。

小河良利は三川村の城主で、小寺政職の家老職にあり、小寺政職に仕えた黒田家と同列であった。

しかし、織田信長に属していた小寺政職が、織田信長に反旗を翻したため、小寺家は没落し、小寺家に属した小河良利も領地没収となり没落した。

小河伝右衛門(小河信章)は小河良利の弟で、小寺家の没落後、黒田官兵衛に仕え、九州征伐で功績を挙げ、5000石を拝領し、黒田家の家老となった。兄の小河良利も黒田官兵衛に招かれ、1370石を拝領し、家老職を務めた。

そして、小河伝右衛門は、豊前封入後に城井鎮房が起した一揆のさい、母里太兵衛と共に赤旗城を攻め落とし、城井鎮房の暗殺時には山田常陸介を誅殺した。

■小河伝右衛門の活躍
豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)では、黒田長政に従って朝鮮半島に渡り、黒田長政から竜泉城(リョンチョン城)の守将を任された。

李氏朝鮮は明(中国)の属国だったので、明(中国)が李氏朝鮮の救済に動きだし、明の大軍が、小西行長が守る平壌城を攻めると、小西行長は闇夜に紛れて平壌城を逃げ出した。

平壌城から逃げ出した小西行長は、大友義統が守る鳳山城へと向かったが、大友義統は明の大軍が押し寄せてくると知り、小西行長の援軍に向かうこと無く、鳳山城を捨てて逃げ出していた。

敵前逃亡した大友義統は、小河伝右衛門が守る竜泉城に立ち寄り、「敵は大軍だ。こんな小城では守り切れない。一緒に逃げよう」と小河伝右衛門を誘ったが、小河伝右衛門は「黒田長政の命令があるまでは引かない。命に代えても城は守る」と断った。

小河伝右衛門が「この城は要害が良いし、弾薬も十分にあるので、休んでいきたまえ」と誘ったが、大友義統は「こんな小城では防ぎきれない」と言い、小河伝右衛門を残して日本軍の拠点・漢城(ハンソン=現在のソウル)へと逃げた。

平壌城から命からがら逃げてきた小西行長は、鳳山城に居るはずの大友義統が居ないことに驚き、さらに南へと逃げ、小河伝右衛門が守る竜泉城へと逃げ込んだ。

小河伝右衛門は、川島七郎左衛門と河端八右衛門に鉄砲数百丁と大量の弾薬を持たせて小西行長を城外まで迎えに行かせた。

そして、川島七郎左衛門と河端八右衛門は、小西行長を追撃してくる明の大軍に絶え間なく鉄砲を撃ち続け、明軍を追い返した。

こうして、小河伝右衛門はわずかな兵で明の大軍を追い返し、明軍の南進を竜泉城で食い止めたのである。

命を助けられた小西行長は「大軍の大友義統が逃げ出したのに、小河伝右衛門はわずかな手勢で城を守り抜いた。大友義統は貧弱。日本一の勇士は小河伝右衛門なり」と小河伝右衛門の勇敢さを褒め称えた。

そして、小西行長は日本に居る豊臣秀吉に小河伝右衛門の武勇を報告し、小河伝右衛門を褒め称えた。

小河伝右衛門の働きに感心した豊臣秀吉が家臣に「小河伝右衛門の知行はいかほどじゃ」と聞くと、家臣は「小河伝右衛門の知行は5000石です」と答えた。

すると、豊臣秀吉は「黒田長政の領内では、過分の可恩は難しいだろう。豊前(福岡県東部)の妙見龍王にある我が蔵入地(直轄地)1万石を与えよう。直ぐに帰国して、対面するべし」と言い、朝鮮半島に使者を送った。

黒田長政は豊臣秀吉の命令に従い、小河伝右衛門を帰国させたが、小河伝右衛門は朝鮮で病になり、帰国途中の対馬で死んだ。このため、豊臣秀吉の恩賞は無くなった。

■小河伝右衛門の子孫
小河伝右衛門には、娘が2人居たが、男児が無く、家督を相続する者が居なかった。

ところで、小河伝右衛門の姉は安保常久と結婚し、男児・喜助(小河之直)を産んだが、安保常久が戦死してしまう。姉は安保常久の死後、姫路の小河家を身を経て、中津の小河家へと移り、男児・喜助(小河之直)を祖母に預けて、黒田家の家臣・桐山信行と再婚した。

小河伝右衛門の死後、桐山信行は男児・喜助(小河之直)の事を哀れみ、男児・喜助(小河之直)を小河伝右衛門の娘と結婚(婿養子)させた。

こうして、男児・喜助(小河之直)は小河内蔵允(小河之直)を名乗り、小河伝右衛門の5000石を引き継いで黒田長政に仕えた。

(注釈:小河家子孫の方から情報提供を頂き、小河之直の母親についての情報を訂正しました。)

小河内蔵允は、第2次朝鮮出兵(慶長の役)や関ヶ原の合戦に従軍しても武功をあげなかったが、文官としての辣腕を振るい1万石を拝領した。

■小河家のその後
小河直常の時代に福岡藩黒田家では、3代目藩主・黒田光之の跡目を争うお家騒動が起きた。いわゆる「第2の黒田騒動」である。

第2の黒田騒動とは、3代目藩主・黒田光之は嫡男・黒田綱之を廃嫡し、養子に出していた黒田綱政を後継者とした事件である。

この「第2の黒田騒動」では、大量の処分者がでており、小河直常も「第2の黒田騒動」に連座して改易され、浪人となった。

一方、兄の小河良利の家系は、「第2の黒田騒動」の難を逃れ、明治時代まで続いた。

その他の黒田家の家臣や黒田官兵衛の情報は、「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

コメント

スポンサーサイト小河伝右衛門(小河信章)の生涯へのコメント

規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。こちらは、コメント欄です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。