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毛屋主水(毛屋武久)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎伝「毛屋主水(毛屋武久)の生涯」です。


■毛屋主水(毛屋武久)のwiki
毛屋主水(毛屋武久)は、黒田官兵衛・黒田長政の家臣で、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人である。

毛屋主水は数々の諸大名を転々とした傭兵のような武将だが、黒田長政の妨害工作により、黒田家に留まった。毛屋主水は徳川家康が「見積もり上手」として絶賛した事でも有名な武将である。

■毛屋主水(毛屋武久)の生涯
毛屋主水の本名は「毛屋武久」である。毛屋主水は本来「田原」姓で、幼名を「田原虎千代」と言い、後に「田原金十郎」と改めた。その後、柴田勝家から「毛屋」の姓を賜って「毛屋主水」と名乗り、筑前入国後に「毛屋武蔵」を号した。

毛屋主水は、天文23年(1554年)に近江国神崎郡で生まれた。父親は田原与次郎という近江の豪族だったが、父・田原与次郎は織田信長の侵略を受けて戦死した。

戦争孤児となった毛屋主水は、建部傅内に養育され、16歳の時に和田和泉守に仕えた。

しかし、和田和泉守も織田信長の侵略を受けて滅亡したため、毛屋主水は近江国の六角義賢に仕え、その後、山崎源太左衛門に仕えた。

■毛屋主水が蒲生氏郷を助ける
織田信長の命令を受けて羽柴秀吉が播磨へ侵攻して三木城を攻め、羽柴秀吉の軍勢が敗走した時のことである(三木城の戦い)。

織田信長の家臣・蒲生氏郷は、家人が離散して孤立し、敵に追撃されて絶体絶命の危機を迎えていたが、そこへ、山崎源太左衛門の家臣・毛屋主水が現れ、見事に敵を追い返してくれたため、蒲生氏郷は九死に一生を得た。

このとき、毛屋主水は、蒲生氏郷に「私は山崎(山崎源太左衛門)の家人で、原田金十郎(後の毛屋主水)と申す。私の主人は貴方と仲が悪いが、急難を見捨てることはできないので救いに参った」と告げた。

すると、蒲生氏郷は「今日の心遣いは一生忘れません」と、毛屋主水に感謝した。

■毛屋主水へ改名
その後、毛屋主水は山崎源太左衛門の元を去り、柴田勝家に仕え、長篠合戦などで功名を挙げた。

あるとき、毛屋主水は、毛屋畠という場所で強敵と戦い、その強敵を討取った。その子供が「父親の敵」として向かってきたので、毛屋主水は子供も切り捨て、見事に親子を討取った。

柴田勝家はこの活躍を見て、毛屋畠という地名から、姓を「毛屋」へと改めさせた。このとき、毛屋主水は4000石を賜り、名前も「主水」へと改め、「毛屋主水」と名乗るようになった。

■毛屋主水の転職人生
その後、毛屋主水は柴田勝家を出て、能登の前田利家に仕えた。それから3年後に前田家を出て、池田信輝に仕えたが、やがて池田信輝の元を離れ、佐々木成政に仕えた。

豊臣秀吉による九州征伐の後、佐々木成政は肥後一国(熊本県)を拝領し、肥後の大名となるが、厳格な太閤検地が地元豪族の反感を買い、肥後国人一揆を招いたため、佐々木成政は責任を取って切腹させられた。

佐々木成政は切腹し、佐々木家はお取りつぶしになると、多くの家臣が浪人となり、多くの者が足軽に身を落として方々に散った。

このとき、毛屋主水・勝野伊右衛門・浅賀左馬助の3人は、豊前国の中津城の城主・黒田官兵衛に召し抱えられた。こうして、毛屋主水は300石を賜り、黒田官兵衛の家臣となった。

その後、三木城の戦いの時に毛屋主水に命を救われた蒲生氏郷は、豊臣秀吉による「奥州仕置」で活躍し、会津42万石を拝領し、大名の仲間入りを果たした。

会津42万石の大名と成った蒲生氏郷は、毛屋主水に命を救われた時の恩を忘れておらず、毛屋主水に「1万石で召し抱えたい」と打診した。

しかし、朝鮮出兵の直前だったので、毛屋主水は「ただいま録を貰っております。朝鮮出兵を前に転職するのは本意ではありません。無事に帰国したら、お仕えします」と答えた。

■毛屋主水の朝鮮出兵(唐入り)
朝鮮半島の黄国(平安道)にある城を攻める時の事である。城の前に大きな河が流れていたので、黒田長政は川上と川下の2手に別れて、川を渡ることにした。毛屋主水は黒田長政と共に川下へと向かう。

この日は霧が出ていたので、川上の様子が分からないため、黒田長政は毛屋主水に「川上の奴らは、もう川を渡っただろうか」と尋ねた。

毛屋主水が「もう渡ったでしょう」と答えると、黒田長政は「霧で何も見えないのに、どうして、そう申すのか」と尋ねた。

すると、毛屋主水が「流れる川の水が濁っており、藁が流れてきております。これは馬の足についていたものでしょう。ですから、川上の手勢はもう川を渡っていると答えたのです」と答えた。

黒田長政は納得して川下を渡ると、毛屋主水が言った通り、川上の手勢は既に川を渡っていたのであった。

■毛屋主水と稷山の戦い
慶長2年9月、第2次朝鮮出兵のとき、明(中国)の大将・解生は、手勢2000を率いて、朝鮮半島の青国(忠清道)北部にある稷山に布陣した(稷山の戦い)。

黒田長政の先手は、黒田長政の旗本よりも先行して進み、夜中に稷山へ到着したため、明の大軍が稷山に布陣していることを知らず、夜が明けると、目の前に明の大軍が布陣していたので驚いた。

先手の武将は軍議を開き、黒田長政の元に戻るか、ここで黒田長政を待って戦うか、議論を尽くしたが、結論は出なかった。

そこで、先手に加わっていた毛屋主水は、「撤退すれば、敵に追撃され、助かるのは馬の強い僅かな者だけでしょう。ここで黒田長政を待っていたも、敵に攻められるでしょう。しかし、我らが心を1つにして、敵の先陣を攻めれば、敵の先陣は破れるかもしれない。敵は先陣が負ければ、退くでしょう。そこで、我らが撤退すれば、追撃される恐れは無い。もし、敵の先陣を破れなくても、勇んで戦っていれば、我々が退いても、敵は反撃を警戒して追撃してこないでしょう。これは私が考えたものではありません。『長篠の戦い』において、武田勝頼は敗戦したが、引き際に進んで強く戦ったので、織田信長・徳川家康は追撃せず、武田勝頼は難なく甲州へと引き上げることができたのです」と意見した。

毛屋主水の意見を聞いた上原新左衛門が「毛屋主水の申す事はもっともである。急いで決戦いたそう」と賛同すると、評議は決し、黒田長政の先手は、敵の先陣と戦った。

黒田長政は、毛屋主水ら先手から、かなり後方に居たが、微かに鉄砲が聞こえてきたので、急いで毛屋主水ら先手の元に駆けつけた。

明軍にも援軍が到着したため、決着は付かなかったが、毛利秀元の本陣2万5000が到着すると、明(中国)の大将・解生は撤退していった。

このとき、黒田長政は「先手が進んで戦っていなければ、敵は勢いに乗じて旗本にも襲いかかり、我らは敗走していたであろう」と言い、毛屋主水に感謝した。

■毛屋主水の煙
慶長2(1597年)12月、第2次朝鮮出兵のとき、明(中国)の楊鎬と麻貴の両大将が5万を超える軍勢を率いて、加藤清正が守る蔚山城を包囲した。

蔚山城に籠もる日本軍は、食糧不足と寒さで絶体絶命の危機を迎えていたが、黒田長政など援軍が到着したので、形勢は持ち直した。

ある日の朝、明軍(中国軍)が山の上に部隊を移したので、黒田長政は毛屋主水を偵察にやり、戻ってきた毛屋主水に「敵陣の形成をいかに見る」と尋ねた。

毛屋主水が「今すぐ合戦なされば、必ず勝ち戦になります」と答えたので、黒田長政は「どうしてだ?」と尋ねた。

すると、毛屋主水は「今朝、敵陣は飯を炊く時間になっても、煙が少しも見えませんでした。今朝だけではありません。昨日もカマドの煙は多く見えませんでした。これは、敵の兵糧が尽きたからです。今朝、敵は陣を立てましたが、敵陣に攻めるには時間が早すぎます。敵は食料が尽き、力無く撤退するために陣を立てたのです」と答えた。

これを聞いた黒田長政は「さもあるべし。能を見たり」と毛屋主水に感心し、家臣を集めると、「敵は引色に見える。退却する敵を追い打ちするのは武勇にあらず。敵が撤退しないうちに戦うべし」と言い、打って出た。

■黒田長政が毛屋主水に激怒
慶長3年、豊臣秀吉が死ぬと、朝鮮出兵が収束に向かい、朝鮮半島に渡っていた日本軍は朝鮮半島からの撤退を始める。

黒田長政も朝鮮半島から帰国すると、論功行賞を行い、毛屋主水に300石を増加した。

しかし、毛屋主水は、朝鮮出兵の前に、蒲生氏郷に仕える約束をしていたので、300石の増加を辞退し、暇を乞うた。

すると、黒田長政は毛屋主水に激怒して300石の増加を取り消し、毛屋主水の親友を集め、毛屋主水の親友・菅和泉と津田長右衛門らを請負人として、「毛屋主水が他国へ行くようなことがあれば、切腹する」と誓い合わせた。

すると、毛屋主水の親友がことごとく、切腹の誓いを立てたため、毛屋主水は黒田家から出られなくなり、蒲生氏郷に仕えることを諦め、黒田家に残った。

■毛屋主水は黒田長政の旗奉行
慶長5年、関ヶ原の合戦のとき、黒田家の旗奉行・竹森新右衛門(竹森次貞)は老齢だったので、竹森新右衛門に代わり、毛屋主水が旗奉行を務めた。

注釈:黒田24騎・竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯については「竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯」をご覧ください。

■毛屋主水と徳川家康の饅頭
関ヶ原の合戦のとき、石田三成ら西軍の陣中がにわかに騒がしいため、東軍の諸将は西軍に偵察を送った。東軍に属する黒田長政も、家臣・毛屋主水に命じ、西軍を偵察させた。

その後、徳川家康は帰陣した偵察から報告を受けるが、西軍の数を10万と言う者も居れば、12万という者も居り、徳川家康も西軍の数を測りかねていた。

毛屋主水は朝鮮半島での活躍が徳川家康にまで届いていたので、徳川家康は偵察から戻ってきた毛屋主水を呼び、「西軍の総勢を、いかほどと見積もった」と尋ねた。

すると、毛屋主水は「西軍の総勢は、せいぜい2万といったところでしょう」と答えた。

徳川家康は不思議がり、「他の偵察は10万という者も居れば、12万と言う者も居る。その方は何を見て西軍を2万と見積もったのか」と尋ねた。

すると、毛屋主水は「確かに西軍には10万の軍勢が居ますが、ほとんどが山の上に布陣し、戦いの成り行きを見守るだけで、戦には参加しません。当面の敵は島津・石田・小西の総勢3万です。これは雑魚兵が混ざっているので、実質は2万と申したのです」と答えた。

これを聞いた徳川家康は「汝は見積もり上手なり」と大いに喜び、目の前にあった饅頭を掴んで毛屋主水に与えた。

■毛屋主水が黒田長政の命令を拒否
関ヶ原の合戦の本戦のとき、進軍する黒田軍の旗奉行・毛屋主水は、山の峰を越え、少し低くなった所に黒田軍の旗を立てた。

これを見た黒田長政は、旗奉行・毛屋主水に「山の峰に戻り、高いところに旗を立てよ」と命じた。

しかし、旗奉行・毛屋主水は「我々は山頂から攻め下りているので、旗を立てる場所が低くなるのは当然です。命令通りに退いて、高いところに旗を立てれば、旗が負色になります。我々の旗が下がったのを見た敵は勢いづきます」と答えて、黒田長政の命令には従わなかった。

■毛屋武蔵は黒田長政に嫌われていた
関ヶ原の合戦の後、黒田長政は筑前一国(福岡県西部)を賜った。そして、黒田長政は筑前に入国すると、論功行賞を行い、家臣に恩賞を与えた。

しかし、黒田長政は毛屋主水にだけ恩賞を与えなかったので、父・黒田如水(黒田官兵衛)は黒田長政に「なぜ、毛屋主水には何も増加してやらないのだ」と尋ねた。

すると、黒田長政は「朝鮮出兵から帰ってきたとき、増加してやったのに、毛屋主水は嫌がって受け取らず、暇を乞うて、私の面目を潰した。なぜ、今更、増加してやらなければならないのすか」と答えた。

これを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は「昔のことを今に至って心に残してはいけない。武功を挙げた者には恩賞を与えなければならない」と言って黒田長政を諭した。

こうして、黒田長政は父・黒田如水(黒田官兵衛)に諭されて、毛屋主水に400石を増加して計700石とし、足軽30人を預けた。その後、黒田長政は毛屋主水に命じて、「毛屋武蔵」と名乗らせた。

■毛屋武蔵(毛屋主水)の結婚
豊前国人一揆を起こした城井谷城の城主・城井鎮房と一族は、黒田如水(黒田官兵衛)によって誅殺されたが、城井鎮房の家臣・鬼木掃部は落ち延び、娘らと共にひっそりと暮らしていた。

毛屋武蔵(毛屋主水)は他国を転々としていたため、40歳になっても独り身だったので、黒田長政は毛屋主水と鬼木掃部の娘「秋」とを結婚させた。

こうして、所帯を持って筑前で落ち着いた毛屋主水は、寛永5年(1628年)に75歳で死んだ。病死だった。

その他の黒田官兵衛や黒田長政や家臣のエビソードについては、「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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