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軍師・黒田官兵衛-松田直秀の処刑と松田直秀の切腹

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ小田原征伐編「軍師・黒田官兵衛-松田直秀の処刑と松田直秀の切腹のあらすじとネタバレ」です。


このページは「軍師・黒田官兵衛の小田原城攻め」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■松田直秀の処刑と松田直秀の切腹
豊臣秀吉による小田原征伐のとき、北条家の重臣・松田憲秀は、長男・笠原政晴とともに豊臣秀吉に内応したが、内応に反対した次男・松田直秀に密告されたために、内応は失敗に終わり、松田憲秀と笠原政晴は投獄された。

天正18年(1590年)7月、北条氏直が小田原城を出て降服したため、小田原城は内部から崩壊し、北条氏政・北条氏照も小田原城を出て、豊臣秀吉に降服した。

このとき、北条氏政は、裏切り者の松田憲秀を処刑してから開城し、豊臣秀吉に降った。

これに怒った豊臣秀吉は、軍師・黒田官兵衛(黒田如水)に「裏切り者の松田の子を殺せ」と、内応を密告した次男・松田直秀の処刑を命じた。

しかし、命令を受けた黒田官兵衛は、松田憲秀の内応に賛同した長男・笠原政晴を切腹させた。

これに驚いた豊臣秀吉は、黒田官兵衛を呼びつけ、「ワシは裏切り者を処刑しろと命じたはずだ。どうして、内応に賛成した長男・笠原政晴を切った」と問いただした。

すると、黒田官兵衛は「次男・松田直秀は親不孝ですが、内応を密告した忠義者です。一方、長男・笠原政晴は親孝行ですが、主君に背く不忠者です。裏切り者を殺せと命じられましたので、主君に背いて寝返ろうとした長男・笠原政晴を処刑しました」と答えた。

すると、豊臣秀吉は、長男・笠原政晴を切腹させた件について、これ以上、追求する事は無かった。

さて、黒田官兵衛の機転によって命が助かった次男・松田直秀は、高野山へ追放となった北条氏直に従って高野山へと移った。

■黒田官兵衛と徳川家康
黒田官兵衛は、九州征伐までは豊臣秀吉が日本一の英雄だと思っていたが、小田原征伐で徳川家康と面会し、「頭の頂上から足の爪先まで、弓矢の金言にて出来たる大将なり」と徳川家康を評価した。

一方、徳川家康も黒田官兵衛の非凡なる才能を認め、「西国第1の弓取りは、黒田官兵衛なるべし」と評価した。

■豊臣秀吉の天下統一
天正18年(1590年)7月5日、北条氏直と北条氏政が降服し、小田原征伐が完了した。

天正18年(1590年)7月26日、豊臣秀吉は宇都宮城へ入り、東北(奥州)諸大名の処罰を決めるた(宇都宮仕置)。

惣無事令を無視して会津を攻めた伊達政宗は、会津などを没収され、150万石から72万石へと減封された。

その後、豊臣秀吉は会津巡察を行い、東北に残る抵抗勢力を排除し、天下統一を成し遂げたのである(奥州仕置)。

こうして、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、会津から京都へと戻る途中に駿府へ立ち寄り、駿府で毛利吉成(別名:毛利勝信)と小西行長に、朝鮮出兵の準備を命じ、ついに朝鮮出兵が始まるのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「軍師・黒田官兵衛-豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)のあらすじとネタバレ」へ続く。

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