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黒田長政と大同江の戦いと李應理(李応理)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と大同江の戦いと李應理(李応理)のあらすじとネタバレ」です。


このペーは「吉田又助は大河の見積もり上手のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田長政と大同江の戦い
文禄元年(1592年)6月14日夜、大同江(大河の名前)は日本に無いほどの大河なので、対岸にある平壌城の様子はハッキリと分からないが、平壌城は松明を持った人々が頻繁に行き来しており、騒々しかった。

黒田長政の家臣・戸田平左衛門は、これを見て「これは、1番隊・小西行長が少々油断しているとみて、平壌城の李氏朝鮮軍が夜襲をかけてくる兆しなり」と思い、鎧を着て夜半に黒田長政の本陣を訪れ、「今夜は何とも心許ない夜なり。皆々、用心するべし」と忠告した。

すると、大勢の家臣が「心配のしすぎだ。あのような大河があるのに、船が無くては渡ってこれまい」と言い、戸田平左衛門を笑った。

しかし、黒田長政の家臣・吉田又助と後藤半内の2人は、朝鮮軍の動きを警戒していたので、鎧を着たまま、甲冑を枕にして、眠らずに並んで横になっていた。

文禄元年(1592年)6月15日未明、平壌城に居る李氏朝鮮の大将・商彦伯が手勢を率いて密かに大同江を渡り、1番隊・宗義智の部隊に奇襲攻撃をかけた。宗義智は完全に油断していたため、奇襲攻撃に混乱し、多くの者が討ち取られた。

黒田長政は寝ていたが、宗義智の陣営から聞こえてくる物音で飛び起き、「誰か有るか」と呼ぶと、鎧を着たまま寝ずに横になっていただけの吉田又助と後藤半内の2人が駆けつけた。

黒田長政は2人に身支度を手伝わせ、湯につけた飯をかき込み、いざ出陣しようとすると、家老が「夜討ちは静かに出るのがよろしい。後に続きたる士卒を待ってください。敵は大軍でしょう。少数の手勢で向かうのは危うい」と言って黒田長政を諫めた。

しかし、黒田長政は「近くに陣を取って居るのに、敵襲を聞きながら、味方の難儀を救わないとは何事だ。最初の戦いで敵が勢いづけば、後の味方が不利になる。一騎なりとも駆けつけ、味方を救うべし。準備が出てきた家人は後から来るであろう」と言い、わずかな手勢を率いて1番隊・宗義智の救援に向かった。

黒田長政が援軍にかけつけると、川岸に白装束の李氏朝鮮軍が3部隊いた。黒田長政は、3000人ほどの李氏朝鮮軍に鉄砲で射撃すると、一斉に李氏朝鮮軍に斬りかかった。

黒田長政の家臣・後藤又兵衛と吉田六郎太夫の2人は、先鋒を競い合うように、李氏朝鮮軍に突っ込んだ。

黒田長政の家臣・戸田平左衛門は、真っ先に4~5人の供を連れ、500~600人の部隊に脇目も振らずに突っ込んでいく。

黒田長政の家臣・吉田又助は進んで敵軍に切り込み、鎧武者を討ち取った。吉田又助は一番槍だと思ったので、討取った鎧武者の首をはねて後藤又兵衛に見せた。

すると、後藤又兵衛は「若者とは思えぬ働きぶりじゃ」と吉田又助に感心したが、既に後藤又兵衛も敵将の首をはねており、「私も首をとっているぞ」と言って、後ろにぶら下げていた首を吉田又助に見せた。

黒田長政の手勢は少数であったが、散々に敵を討ち取り、行き場を失った李氏朝鮮軍は大同江に飛び込み、溺れ死んだ者も多かった。

黒田長政は後陣が整うのを待たずに少数で駆けつけ、命を惜しまずに戦ったので、1番隊・小西行長は全滅の危機を逃れることが出来た。

黒田長政は矢で2カ所を負傷していたので、少し松がある場所へと引いて、馬を休めていると、準備に遅れた家臣・野村太郎兵衛ら70騎ほどが駆けつける。

このとき、李氏朝鮮軍は雨の様に矢を放って攻撃してきたので、黒田長政の手勢に矢の負傷者が多く出た。

そこで、野村太郎兵衛は黒田長政に「ここは弓矢の射程内です。いったん、小松の影に退き、後陣と合流して敵を討ちましょう。そして、鉄砲を一斉に放ち、その勢いで攻め込みましょう」と進言した。

しかし、黒田長政は「このような時に、敵に息をつかせれば、益々、多くの矢を放つようになる。少数でも絶え間なく敵に襲いかかり、息をつかせないようにする事に利がある」と拒否した。

すると、黒田長政の家臣・吉田又助が馬具の障泥(泥よけ)を取り外して手に持ち、「これは良き盾なり。このようにして矢を防げばよろしい」と告げた。

これを見た黒田長政は「良き才覚なり」と言い、吉田又助の案を採用すると、皆が馬具の障泥(泥よけ)を取り外して盾にして、李氏朝鮮軍へと切り込んだ。

黒田軍は数百人を討ち取って李氏朝鮮軍を大同江へと押し返したが、李氏朝鮮軍も必死に抵抗するため、黒田長政の家臣・黒田次郎兵衛と梶原七右衛門が討ち死にした。

■黒田長政と李應理(李応理)
すると、黒田長政は家臣・黒田次郎兵衛と梶原七右衛門を討たれた恨みを晴らすため、馬に乗ったまま大同江へ入り、剣を抜いて李氏朝鮮の兵を斬り殺した。

その時、黒田長政は李應理(李応理)という者に矢で射られたため、矢を抜かないまま、李應理(李応理)を2度切りつけた。

李應理(李応理)は剛者で、切られながらも、馬に乗っていた黒田長政の草摺(くさずり=鎧の一部の名称)を掴んで、黒田長政を河の中に引きずり込んだ。

黒田長政は水中で李應理(李応理)と組合になり、終いには李應理(李応理)を殺したが、鎧が重いため、溺れて死にそうになった。

しかし、黒田長政の甲の立て物(水牛の角)の先が水面から出たので、渡邊平吉が水牛の角に気づいて、大同江(だいどうこう)に飛び込み、黒田長政を引き上げて助けた。

このとき、黒田家の家臣・後藤又兵衛は「この程度の敵に討たれるようでは、我が主人ではない」と言い、黒田長政を助けずに、見物していたため、黒田長政は激怒し、後藤又兵衛と不仲になったという逸話が残っている(たぶん後世の創作)。

さて、大将の黒田長政が命を省みずに戦ったので、母里太兵衛や栗山善助ほか、士卒に至るまで懸命に戦い、敵を討ち取り、また討ち取られた。このとき、黒田軍に矢傷を負わなかった者は居なかった。

李氏朝鮮軍は山手に逃げたので、黒田長政は追撃して、散々と討ち取ると、李氏朝鮮軍は崩れて逃げていった。

このとき、敗走する朝鮮軍は王城灘の浅瀬を歩いて大同江を渡って平壌(ピョンヤン)へ帰ったため、黒田長政らは大同江を歩いて渡れることを知り、翌日、大同江を歩いて渡り、平壌城へと迫るのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と平壌城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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