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豊臣秀吉の耳塚(鼻塚)のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と碧蹄館の戦いのあらすじとネタバレ」です。


このページは「黒田長政と碧蹄館の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■豊臣秀吉の耳塚(鼻塚)
文禄2年(1593年)、日本軍は碧蹄館の戦いで明の大将・李如松を退けたが、李如松は大軍で平壌城に大軍で籠もったため、日本軍は明軍を攻める事が出来なかった。

しかし、日本に居る豊臣秀吉は使者を送り、「唐人(中国人)が出てきたのは幸いだ。急いで合戦をせよ」と頻繁に催促した。

これに困った石田三成ら三奉行は、諸将と日夜、合戦の謀を相談したが、李如松は大軍で開城に籠城しているため、明軍を打ち負かす良策が出ず、いたずらに時間を過ごした。

さて、豊臣秀吉は朝鮮出兵のさい、諸将に「朝鮮に渡って日本人の数ほど敵を殺し、耳を切って差し出せ」と命じていたので、漢城に駐留する日本軍は戦をしない間に、家人を派遣して、漢城から1~2里、あるいは3~4里も敵を探して馳行き、敵を討ち取らせた。

そして、諸将は、それぞれに討ち取った切り耳を軍功の証しとして日本へ送り、豊臣秀吉へ献上した。

そもそも、耳切とは、豊臣秀吉が考案したものでは無く、古来中国より伝わるものである。古来中国では敵を討ち取った証に、敵の左の耳を切り取り、献ずる習慣があった。

「取」という漢字は「耳」に「手(又は手の変形)」と書く。「取」という漢字は古来の中国人が耳を切り落としていた様子を表す漢字なのである。

また、古来の日本も耳切の方法を用いており、神功皇后(日本書紀や古事記に登場する人物)が新羅(朝鮮半島にある国)を征伐して帰陣するとき、香椎の里(福岡県福岡市東区香椎)に止まって耳塚を作らせた、という伝承が残っている(香椎の里の耳塚伝説)。

さて、豊臣秀吉は「耳を切るべからず。鼻をそぎ落として差し出せ」と命じたので、漢城(ハンソン)に駐留する日本軍は、敵を求めて走り回った。

豊臣秀吉は、届いた切り耳や切り鼻を集めて京都へ持って行き、大仏の前に埋めて盛大に供養し、耳塚(鼻塚)を作らせた。(注釈:耳塚の住所は、京都府京都市東山区塗師屋町で、豊国神社の西にあります。)

さて、中国では、敵の死体を高く積み上げ、その上に土を封じて、これを京観(けいかん)と呼んだ。

京観とは、大いに示すという意味で、敵に打ち勝ってその印を残し、我が子孫に先祖の武功を忘れさせないように、大いに示す物である。

豊臣秀吉が切り耳や切り鼻を献上させ、耳塚(鼻塚)を築くいたのは、朝鮮人を供養するとともに、京観と同じような意味合いがあったと伝わる。

(注釈:豊臣秀吉の耳塚は、当初は「鼻塚」と呼ばれていたが、江戸時代に「耳塚」と呼ばれるようになった、とされる。)

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小早川隆景と権慄-幸州山城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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