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秀次事件-豊臣秀次は殺生関白

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白のあらすじとネタバレ」です。


このページは「黒田節の由来は母里太兵衛と福島正則のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■豊臣秀次は殺生関白
豊臣秀次は、豊臣秀吉から関白の座を譲り受けたが、豊臣秀次は元来、悪人だったので、日々おごり盛んに成り、酒に溺れて遊宴を行い、天下の政道を心かけなかった。

また、豊臣秀次は人を殺すことが好きで、刀の試し切りで人を殺したり、妊婦の腹を切り裂いて胎児を取り出したり、櫓の上から鉄砲で往来の人を撃ったりして、人殺しを楽しみ、豊臣秀次の悪逆は限りない。

ゆえに、当時の人々は関白・豊臣秀次の事を「殺生関白(せっしょうかんぱく)」と呼んで恐れた。

されど、豊臣秀次は、ただ豊臣秀吉の甥というだけで、関白の座を手に入れたため、豊臣秀吉に実子・豊臣秀頼が誕生すると、豊臣秀次は次第に立場を弱めていくのであった。

(注釈:豊臣秀次が「殺生関白」と呼ばれたとされているが、「殺生関白」は豊臣秀吉の秀次事件を正当化するため、江戸時代に創作されたという説が有力である。)

■豊臣秀次事件のあらすじとネタバレ
豊臣秀次は永禄11年(1568年)に生まれた。父は農民・弥助で、母は豊臣秀吉の姉・智(とも)である。豊臣秀次と豊臣秀吉は、甥と叔父の関係にあたる。

叔父の豊臣秀吉が織田信長の家臣になった関係で、豊臣秀次は豊臣秀吉に寝返った宮部継潤の養子となった。しかし、その後、豊臣秀次は豊臣秀吉の元に戻り、次は阿波・三好3兄弟の三好康長の養子となった。

天正10年(1582年)、阿波(徳島県)の三好家は土佐(高知県)の長宗我部元親の侵攻を受け、織田信長に援軍を求めたが、織田信長は四国征伐軍を派遣する直前に本能寺の変で死に、四国征伐は中止となった。

本能寺の変の後、阿波の三好家が衰退すると、時期や経緯は不明ながら、豊臣秀次は三好康長の養子を抜け、豊臣秀吉の養子となった。

豊臣秀吉の養子となった豊臣秀次は、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では大敗したものの、その後は紀州征伐や四国征伐や小田原征伐で活躍し、豊臣秀吉の右腕となった。

さて、豊臣秀吉の実子はいずれも夭折しており、実子は居なかったが、豊臣秀吉には右腕となる弟・豊臣秀長が居た。しかし、豊臣秀長は病気で小田原征伐に参加できず、翌年の天正19年1月に病死した。

そこで、天下を統一した豊臣秀吉は、養子の豊臣秀次を後継者に選び、天正19年(1591年)に豊臣秀次に関白を譲り、日本の政治を豊臣秀次に任せると、文禄元年(1592年)に朝鮮出兵(唐入り)を発令したのである。

そのようななか、朝鮮出兵(唐入り)が講和交渉に入り、休戦状態にあった文禄2年8月(1593年8月)、側室の茶々(淀殿)が豊臣秀頼を出産した。

豊臣秀吉は57歳にして待望の実子・豊臣秀頼が誕生したが、既に後継者を豊臣秀次に決めて関白を譲っており、豊臣秀頼は素直には喜べない問題であった。

そこで、豊臣秀吉は前田利家に命じ、生まれたばかりの豊臣秀頼を豊臣秀次の娘と結婚させる打診をしており、実子・豊臣秀頼を豊臣秀次の後継者にしようとしていた。

また、豊臣秀吉は豊臣秀次と対面し、日本の5分の4を豊臣秀次に与えることを約束した(残り、5分の1は実子・豊臣秀頼に与えようとした)。

その一方で、豊臣秀吉は京都の伏見に建設していた隠居用の城を本格的な城に改修し、伏見の一部を各大名に与え、住居を建てさせた。

伏見城の改修は、明(中国)の勅使を迎えるという名目があったが、豊臣秀吉は豊臣秀頼を伏見城に入れようとしており、聚楽第に居る関白・豊臣秀次を牽制する結果となった。

文禄4年(1595年)1月、小西行長が明(中国)へ派遣した小西如安(内藤如安)からの連絡が来ないことから、豊臣秀吉は関白・豊臣秀次を総大将とする12万5000の軍勢を朝鮮半島へ再派兵する計画を発表した。

しかし、小西如安(内藤如安)からの連絡が来たため、豊臣秀次の朝鮮出兵は中止となった。

そのようななか、文禄4年(1595年)7月、関白・豊臣秀次の運命が急変する。

文禄4年(1595年)7月3日、奉行の石田三成・増田長盛・前田玄以・富田知信の4人が聚楽第を訪れ、「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てている、という噂がある」として、関白・豊臣秀次を追求したのである。

関白・豊臣秀次は「謀反の意思は無い」と釈明すると、石田三成らは関白・豊臣秀次に誓紙を求めた。関白・豊臣秀次は求めに応じて、7枚継ぐの誓紙を提出した。

7枚継ぐの誓紙の誓詞によって、豊臣秀次の容疑は晴れたかのように思われたが、文禄4年(1595年)7月5日、石田三成が豊臣秀吉に「豊臣秀次が毛利輝元と通じてる証拠が見つかった」と報告する。

すると、豊臣秀吉は豊臣秀次に「色々な説が出るのは、豊臣秀次が釈明しないからだ。親子なのだから、至急来なさい」と言い、関白・豊臣秀次と直接、話すことにした。

文禄4年(1595年)7月8日、関白・豊臣秀次の元に、山内一豊・堀尾吉晴・中村一氏・宮部継潤・前田玄以の5人がやってくる。5人は豊臣秀吉の使者であった。

宮部継潤は豊臣秀次の義父で、山内一豊・堀尾吉晴・中村一氏の3人は近江八幡時代からの豊臣秀次の重臣である。使者はいずれも豊臣秀次と親しい人物であり、豊臣秀次は何の疑いも無く、伏見城へと向かった。

しかし、関白・豊臣秀次は、伏見に着いても伏見城には入ることが出来ず、伏見城下にある木下吉隆の屋敷で待たされた。

その日のうちに豊臣秀吉の使者が訪れ、使者は関白・豊臣秀次に「ご対面には及ばない。高野山へ行かれよ」と、高野山での待機を命じた。

関白・豊臣秀次は300人ほどの供を連れていたが、大勢の供を連れて行くことは許されず、小姓など10数人を連れて高野山へ向かった。こうして関白の座を追われた豊臣秀次は、高野山へ登り、青巖寺で待機した。

文禄4年(1595年)7月15日、豊臣秀吉の使者・福島正則が3000の手勢を率いて高野山の青巖寺を訪れ、豊臣秀次に切腹を求めた。当時は、寺に入った者に切腹を迫るということは、異例だった。

寺院へ逃げ込んだ者は救済されるという慣習があるため、高野山の僧が福島正則の軍勢の前に立ちはだかったが、豊臣秀次が切腹を承諾したので、高野山の僧は引いた。

こうして、文禄4年7月15日、小姓の山本主殿・山田三十郎・不破万作・玄隆西堂の4人は、豊臣秀吉から刀を賜り、青巖寺で切腹した。豊臣秀次は4人の介錯を務めた。

4人がの切腹が終わると、豊臣秀次も青巖寺で切腹した。その介錯は雀部重政が務めた。介錯を務めた雀部重政は、豊臣秀次の後を追って自刃した。

文禄4年8月2日、京都の三条河原で、豊臣秀次の妻子・側室39人が処刑された。豊臣秀吉は、処刑後、豊臣秀次や妻子・側室の死体を集めて塚を作った。その塚は「畜生塚」と呼ばれるようになった。

また、豊臣秀吉は豊臣秀次の妻子・側室を処刑した後、聚楽第を徹底的に破壊した。

■秀次事件と伊達正宗のあらすじとネタバレ
豊臣秀次の罪に連座して、豊臣秀次の家臣の白井成定・熊谷直之が自害し、木村常陸介が斬首になった。その他の家臣は他家預かりの後、切腹や改易となった。

また、豊臣秀次に親しかった大勢の大名や武将が、豊臣秀次に誼を通じていたとして、豊臣秀次事件に連座して処罰されたが、中には伊達政宗のように処罰を免れた者も居た。

豊臣秀次事件のとき、伊達政宗は豊臣秀吉から「豊臣秀次と密会した」という嫌疑をかけられたが、上京して堂々と弁明し、切腹を免れた。

その代わり、伊達政宗は豊臣秀吉から、重臣の妻子を全員、伏見城に置き、家臣1000人を在京させ、豊臣秀頼に忠誠を誓うことを命じられた。

こうして、伊達政宗は、豊臣秀吉から、伊達屋敷と家臣の屋敷が与えられ、家臣1000人が在京するようになり、伊達家の家臣が住んだ町を「伊達町」と呼ぶようになった。

■黒田如水(黒田官兵衛)と豊臣秀次事件
豊臣秀次に親しかった大勢の者が連座して処分を受けたが、黒田如水(黒田官兵衛)は、豊臣秀次が切腹した翌月の文禄4年8月21日に、豊臣秀吉から播磨揖東郡に湯沐料として2000石を拝領した。

このため、黒田如水(黒田官兵衛)が豊臣秀次事件の黒幕という説もあるが、その真相は定かでは無い。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小西行長の欺瞞外交と第2次朝鮮出兵(慶長の役)のあらすじとネタバレ」へ続く。

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