スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


黒田長政と蔚山城の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と蔚山城の戦いのあらすじとネタバレ」です。


このページは「加藤清正と蔚山城の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田長政
蔚山城の加藤清正が明・李氏朝鮮軍に攻められたとき、黒田如水(黒田官兵衛)と黒田長政は倭城・梁山城を守っていた。

蔚山城の救難を聞いた日本軍の諸将は西生浦へ集まり、蔚山城の後ろ攻めを協議するが、明・李氏朝鮮軍は大軍だったので、簡単に合戦に及ぶことが出来なかった。

黒田長政は、兵士の大半を蔚山城に残し、黒田如水に蔚山城を預けると、井上九郎右衛門と栗山四郎右衛門を連れて、西生浦へ馳せ参じ、唯1人、蔚山城を後ろ攻めにする事を進んで主張すると、諸将も諫められて蔚山城の後ろ攻めを決定した。

こうして、日本軍は、黒田長政・蜂須賀家政を先鋒に蔚山城へ進んだ。

明軍(中国軍)は日本の援軍を警戒して、山に出城を築いて待ち構えていたが、先鋒の黒田長政は直ぐにその出城を乗っ取り、その山に陣取った。

そして、黒田長政は密かに蔚山城へ人を送り、「援軍が来たので、心強く戦いたまえ」と加藤清正を励ますと、加藤清正は「大軍に囲まれて難儀に至り、十死一生と思っていたところに、黒田長政の旗を見て力を得て、一死十生と存ずるなり」と喜んだ。

さて、明軍は慶長3年(1598年)1月3日に蔚山城の加藤清正と講和交渉を行う予定だったが、加藤清正は黒田長政らの到来したため、講和交渉を拒否した。

これを受けた明軍は慶長3年1月4日の早朝、明軍の大将・楊鎬と麻貴が自ら全軍を指揮し、蔚山城を3方から囲み、総攻撃に出た。このとき、楊鎬と麻貴は、引く者を切り捨て、不退転の決意で蔚山城を攻めた。

明・李氏朝鮮軍の攻撃は熾烈を極めたが、蔚山城に籠城する日本軍は明軍を撃退する。蔚山城を攻めに失敗した明軍は、日本の援軍に退路を断たれることを恐れ、撤退を決定した。

翌日、夜明けに明軍が山の上に部隊を移したので、黒田長政は家臣・毛屋主水を物見に行かせた。

黒田長政が「敵の陣形の形勢をいかに見る」と問うと、物見から返ってきた毛屋主水は「ただいま合戦なされば、必ず勝ち戦になります」と答えた。

黒田長政が理由を尋ねると、毛屋主水は「今朝、敵陣は飯を時間になっても、煙が少しも見えませんでした。今朝だけでは無く、昨日も竈の煙が多く見えませんでした。これは敵陣の兵糧が尽きたためでしょう。そのうえ、今、部隊を動かしたのは、我らに攻め込んでくるには時間が早すぎます。これは、食が尽きて引こうとしているのです」と説明した。

黒田長政は「さもあるべし。能を見たり」と毛屋主水を褒め、家臣を集めて「敵は引き色に見える。引く敵を追い打ちするのは武勇にあらず。敵が引いていないうちに打ちかかり、追散せん」と命じると、黒田長政は士卒に先んじて馬を川に乗り入れ、敵陣に向かった。

すると、明軍は黒田長政に散々と弓を放った後、数千騎で黒田長政の手勢に斬りかかった。黒田長政は勇み戦いて、敵軍の1段、2段を追い崩せると、明軍は新手を入れて防ぎ戦った。

このとき、黒田長政の家臣・宮崎久作は14歳であったが、早く敵に進んで、槍で敵一騎を突き落として首をはねた。

家臣・宮崎久作は、その首を持って黒田長政に「一番首を取りました」と報告すると、黒田長政は「このような時は、打ち捨てにするものぞ」と教えた。

すると、家臣・宮崎久作は首を捨てて、また敵陣に向かおうとしたので、黒田長政は家臣・宮崎久作に「深入りして、大勢の敵に取り囲まれるな」と注意した。

さて、明軍は大軍なので次々と新手を入れた。黒田長政は手勢2500だったので、息をつく暇も無く戦った。

明軍はこれを見て、大軍で黒田長政の軍勢を取り囲んで、黒田長政の手勢と揉み合った。

このとき、黒田長政の家臣・四宮萬七(四宮万七)が討ち死にした。四宮萬七は享年29であった。

四宮萬七(四宮万七)は、豊前・城井谷の戦いで、黒田長政を逃がす時間を稼ぐために、敵と戦い討ち死にした四宮次左衛門の弟である。

(注釈:兄・四宮次左衛門が討ち死にした城井谷の戦いのあらすじとネタバレは「黒田長政と城井鎮房-城井谷の戦いのあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

四宮萬七(四宮万七)は備前に居たが、兄・四宮次左衛門が討ち死にした後、黒田長政に呼び寄せられ、兄・四宮次左衛門の後を継いだ。

四宮萬七(四宮万七)は怪力の持ち主で、朝鮮の陣中に鹿の角を割く者は居れど、鹿の角を折る怪力の持ち主は四宮萬七(四宮万七)ただ1人だったと伝わる。

さて、川上に居た援軍の毛利秀元・小早川秀秋・鍋島直茂も川を渡って明軍(中国軍)と戦った。

明軍の総大将・楊鎬は明日撤退する予定であったが、黒田長政の旗が向かいの山に見えたため、一戦もせずに逃げ、ついに明の大軍は撤退した。

しかし、蔚山城の城下へ攻め寄せていた明軍は、総大将・楊鎬の撤退を知らず、城下町に陣取っていた。

翌日、蔚山城から加藤清正が打って出て、後ろ攻めの日本軍とで、城下町に居る明軍を挟み撃ちにし、散々に討取った。蔚山城の戦いで、明・李氏朝鮮軍の死者は2万を超えたと伝わる。

撤退する明軍の追撃を提案した武将も居たが、食糧不足を理由に追撃は行われなかった。こうして、第1次・蔚山城の戦いは終わった。

その後、加藤清正は蔚山城に留まり、黒田長政は梁山城へと返った。黒田長政の留守中に敵が度々、梁山城へと攻めてきたが、留守を預かる黒田如水(黒田官兵衛)は少数の手勢で敵を追い返していた。

さて、漢城に逃げ帰った総大将・楊鎬は、明の皇帝に「李氏朝鮮の土民が日本軍に味方したために負けた」と偽りの報告したが、その後の調査により、楊鎬の偽装工作が発覚したため、楊鎬は処分されたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「三路の戦い-小西行長と順天城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

コメント

スポンサーサイト黒田長政と蔚山城の戦いへのコメント

規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。こちらは、コメント欄です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。