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大友義統の豊後奪還作戦-九州の関ヶ原の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「大友義統の豊後奪還作戦-九州の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」です。


このページは「黒田如水(黒田官兵衛)が兵士を募集した方法のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大友義統の豊後奪還作戦
大友家は、源頼朝の時代に大友能直が豊前・豊後の守護に任ぜられた名家で、戦国時代の大友宗麟のとき、九州の統一を目前とするキリシタン大名であった。

しかし、大友宗麟(大友義鎮)は、天正6年(1578年)に「耳川の戦い」で薩摩の島津義久に敗れ以降、衰退の一途をたどり、島津義久による九州統一を阻止するため、豊臣秀吉に助けを求めた。そして、豊臣秀吉による九州征伐の後、大友宗麟は豊後一国(大分県)を安堵された。

ところが、大友宗麟(大友義鎮)の子・大友義統は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(唐入り)のとき、小西行長を助けずに敵前逃亡したため、豊臣秀吉の怒りを買い、改易され、豊後(大分県)を取り上げられた。

そして、改易された大友義統は、毛利家預かりとなり、周防(山口県)で幽閉されていたが、豊臣秀吉の死後、恩赦が出て大阪で蟄居していた。

(注釈:大友義統が朝鮮出兵で敵前逃亡したあらすじとネタバレは「大友義統は『朝鮮の卑怯者』のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

このようななか、石田三成は徳川家康の留守を突いて大阪城を占領し、毛利輝元を盟主として挙兵すると、東軍の大名・細川忠興を改易し、細川忠興の領土を没収したのである。

細川忠興は、丹後(京都府北部)12万石の他に、徳川家康から豊後国速見郡6万石を拝領しており、飛び領地の豊後・杵築城(大分県杵築市)に家臣・松井康之と有吉立行を入れていた。

石田三成は細川忠興の改易を理由に、杵築城の明け渡しを求めたが、杵築城の城主・松井康之は明け渡しを拒否した。

そこで、石田三成と毛利輝元は、豊後国の旧領主・大友義統を呼び、大友義統に豊後国速見郡を与えたうえで、3000枚・鉄砲300挺・槍100本・甲冑100領・馬100頭を与えたのである。

こうして、慶長5年(1600年)8月、友義統は拝領した旧領地・豊後国速見郡を回復するために挙兵した。

さて、大友義統は朝鮮出兵で敵前逃亡して改易されたあと、毛利家預かりとなったが、嫡男・大友義乗は徳川家康預かりとなり、徳川家康の世話になっていたので東軍に属していた。

大友義統の元家臣・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大友家の改易後、筑後・柳川城(福岡県柳川市本城町)の城主・立花左近(立花宗茂=西軍)の客将となっていたが、この度の乱で嫡男・大友義乗を助けて大友家を復興するため、立花左近(立花宗茂)に暇を乞い、関東を目指した。

しかし、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大阪に入ったとき、旧主君・大友義統が挙兵して豊後へ下向する事を知る。

吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大友義統の元へ駆けつけ、「天下は徳川家康のお手に入るでしょう。この度の乱は、天下を望む石田三成の謀計によって起こったことです。逆謀を担いで、いったん利運が来たとしても、悪名を末代まで残し、浅ましきことです。その上、御身も御名も共に失ってしまいます。大友義延(大友義乗)は徳川家康に属し、江戸に居るので、大友義延(大友義乗)と供に徳川家康の見方をするのが当然です。これは大事な分別なので、よく思案して、後悔の無いようお謀りください。私は大友義延(大友義乗)を盛り立てるため、立花左近(立花宗茂)に暇を乞い、関東へ参る所です」と東軍への参加を懇願した。

しかし、旧領土回復に燃える大友義統は同心しなかったので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は「今、滅亡が極まりたる目の前の主君を捨て、世に出て当然の遠く関東の大友義延(大友義乗)の元へ向かうのは不義である。もはや我が運命は尽き果てている。ならば、大友義統の供をして豊後に下り、本国の土とならん」と諦め、大友義統と従って豊後へと下向する事を決めた。

さて、黒田如水(黒田官兵衛)は大友義統の挙兵を知ると、家臣・宇治勘七に命じて、中津(大分県中津市)で革細工をしている大神大学を呼び寄せた。

大神大学は、大友義統の小姓だったが、大友義統が朝鮮出兵(唐入り)で敵前逃亡して改易されたため、中津へ来て革細工を生業としていた。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は大神大学に内命を言い渡し、黒田如水の家臣・宇治勘七と共に、豊後へ下向中の大友義統の元へ向かわせたのである。

すると、家臣は「大神大学は大友義統の元家臣なので、中津城の地理や味方の情報を大友義統に教えるに違いない。なぜ、そのような者を遣わすのか」と憤慨した。

それを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は「大神大学が大友義統に内通しているからこそ使者にしたのだ。大神大学が中津城の情報を教えれば、大友義統は中津城を攻め落とす方法を考えるであろう。しかし、私は中津に攻め入られる前に大友義統を攻めるので、中津城の情報を知っても役に立たない。私は作戦を大神大学に聞かせ、その作戦を大友義統に報告させ、その裏をかくのだ。それに、元家臣を送れば、大友義統は大神大学をしばらく留め置くだろう。宇治勘七には『その間に大友義統の兵力を見てまいれ』と命じている」と答えた。

慶長5年(1600年)9月7日、大神大学と宇治勘七は、豊後を目指して下向中の大友義統の元を訪れると、黒田如水(黒田官兵衛)の親書を渡して、丁寧に利害を説いて東軍・徳川家康に加わるように説得した。

しかし、大友義統は「確かに徳川家康に属した方が得策だろう。長男・大友義乗のこともある。しかし、流浪中に受けた毛利家への恩がある。即答は出来ないので、黒田如水(黒田官兵衛)に猶予が欲しいと伝えてくれ。私が豊後(大分県)に到着したら、使者を送って返答する」と答えて回答を避けた。

そして、大友義統は「久しく見ない間に大きくなったな。汝を見て昔を思い出した」と言い、元小姓の大神大学を引き留め、語り合った。この間、宇治勘七は密かに抜け出し、大友義統の軍勢や船の数を偵察した。

慶長5年(1600年)9月8日、大神大学と宇治勘七は、黒田如水(黒田官兵衛)の元へと戻り、大友義統の事を報告した。

一方、大友義統は慶長5年(1600年)9月8日、船で豊後国速見郡濱脇(大分県別府市浜脇)に上陸する。

大友家は、源頼朝の時代に大友能直が豊前・豊後の守護に任ぜられた名家で、父・大友義鎮(大友宗麟)の威武により、筑前・筑後・肥後・日向は父・大友義鎮(大友宗麟)に属していたので、今に至っても大友家の旧恩を慕い、好を忘れざる者が多かった。

大友家は改易され、家臣の多くは浪人になり、土民になった家臣も居るが、大友義統が豊後へ下向して旗を揚げると聞きたるや、旧主君に使えんとして、大勢の者が兵糧を下げて駆けつけた。

大友家の旧家臣の田原紹忍(田原親賢)・吉弘統幸などのほか、豊臣秀吉の九州征伐で滅ぼされた豪族などが集まり、大友義統の軍勢は瞬く間に3000人に膨れあがった。

(注釈:黒田如水は中津で挙兵するとき、お金の力を使って9000の兵を集めた。)

さて、豊後に上陸した大友義統は軍議を行い、黒田如水(黒田官兵衛)から来た「東軍に属すべきだ」という説得の手紙を見せると、田原紹忍(田原親賢)は「黒田如水の言うことはもっともです。大友家は豊臣秀吉に滅ぼされたのに、何故、西軍の味方をするのですか。徳川家康に味方し、お家を復興するべきです」と忠言した。

しかし、大友義統は「この度、幼君・豊臣秀頼よりのかたじけない御意より、豊後を賜った。また、浪人の間、毛利輝元から深い恩を受けたので、一命を捨ててこの恩に報いるものなり」と答えた。それを聞いた田原紹忍(田原親賢)は、大友義統に感心した。

さて、大友義統は旧領土の豊後国速見郡を与えられたと言っても、速見郡の杵築城(大分県杵築市)には細川忠興の家臣・松井康之と有吉立行とが籠城しており、自力で奪い返さなければならず、本陣を敷く拠点が必要であった。

杵築城(大分県杵築市)から南へ6里(23.5km)の場所に立石山があり、立石山の中腹部に立石城という旧城があった。

そこで、田原紹忍(田原親賢)は「良き要害があります。速見郡立石は、後ろは険しい山があり、前は岩岸が高くてつづら折りになる細道です。ご先祖・大友能直が源頼朝より豊後を賜り、この地に下りたとき、まず、立石にお上りになりました。また、父・大友義鎮(大友宗麟)も立石にて勝利を得た吉例もございます。ここに陣を敷きたまえ」と提案した。

大友義統は田原紹忍(田原親賢)の意見に同心すると、杵築城(大分県杵築市)を攻めるため、立石城(大分県別府市)へと入り、立石城を修復したのであった。

一方、杵築城の松井康之は、黒田如水(黒田官兵衛)から大友義統が攻めてくるという情報を得て城を修復し、黒田如水や加藤清正の援助を受け、籠城の準備をしていた。

このとき、黒田如水(黒田官兵衛)は松井康之に「大友義統が来ても戦ってはいけない。3日籠城すれば、我が軍が駆けつける。それまで守り抜け」と援軍を約束しており、松井康之は大友義統の来襲に備えて杵築城の守りを固めていた。

一方、金銀を放出して兵士を集めた黒田如水(黒田官兵衛)は、慶応5年(1600年)9月10日に「如水原」で軍を整え、大友義統を討つため、豊後へと侵攻したのである。

大友義統が旧領土を回復するために豊後(大分県)に上陸したのは慶長5年(1600年)9月、黒田如水(黒田官兵衛)が55歳、黒田長政が33歳の事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)の挙兵-如水原で大友義統を罵倒したあらすじとネタバレ」へ続く。

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