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黒田如水と富来城の戦い-黒田水軍と島津水軍の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水と富来城の戦い-黒田水軍と島津水軍の戦いのあらすじとネタバレ」です。


このページは「黒田如水(黒田官兵衛)と熊谷外記-安岐城の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水と富来城の戦い
豊前にある安岐城(大分県国東市安岐町)を開城させた黒田如水(黒田官兵衛)は、北へと兵を進め、慶長5年(1600年)9月23日に富来城(大分県国東市国東町富来浦)を囲んだ。

富来城の城主・垣見一直は、西軍・石田三成に属して美濃に出兵しているため、兄の筧利右衛門が富来城を守っていた。

黒田如水(黒田官兵衛)は富来城に使者を送って降伏を勧告したが、富来城の守将・筧利右衛門は勧告に応じず、使者を追い返すと、黒田陣営に向かって大砲を撃って返答とした。

これに怒った黒田家の家臣が「このような城は力攻めにすれば、直ぐに落ちるでしょう」と意見すると、黒田如水(黒田官兵衛)は「敵を侮るでない。このような城でも謀を無くして攻めれば、味方を失う。私は九州を平定して上方へ攻め上るのだ。このようなときは、味方を失わずして、謀をもって勝つことを良しとする」と言い、城攻めを禁じた。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は櫓を組んで櫓の上から鉄砲で攻撃させ、また、城の外堀を埋めさせた。

このとき、富来城に火矢の上手な者が居り、城壁から火矢を打ちかけたので、黒田軍の陣屋が所々、炎上して難儀した。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は、家臣・田代彦助に「汝は鉄砲が上手なので、この者を撃て」と命じた。田代彦助は1発目は外したが、2発目で見事に火矢を射る城兵を狙撃した。

■宮本武蔵と富来城
ところで、後に剣豪と呼ばれるようになる宮本武蔵は関ヶ原の合戦のとき、宇喜多秀家に従って関ヶ原のどこかで戦ったという有名な話があるが、これは歴史小説家の創作らしい。

伝承では、宮本武蔵と宮本武蔵の父(義父)・新免無二の2人は、黒田家の家臣・黒田政成の与力をしており、挙兵した黒田如水(黒田官兵衛)に従軍して、石垣原の戦いや富来城攻めで戦ったと伝わる。

石垣原攻めのとき、宮本武蔵は先駆けして富来城の石垣を乗り、城壁に取り付いたが、敵兵が城壁の鉄砲狭間(鉄砲を撃つための穴)から槍を突いてきたので、宮本武蔵はその槍で太ももを刺されてしまった。

宮本武蔵は激怒して、味方に「この槍を奪い取る」と宣言し、敵の槍を折って奪い取り、味方に自慢した。味方は驚いて宮本武蔵を治療しようとしたが、宮本武蔵は傷口に馬の糞を塗り、再び富来城を攻め立てたと伝わる。

宮本武蔵と父(義父)・新免無二は剣豪として知られているが、既に鉄砲が普及していたので、合戦では活躍できず、「鉄砲が無ければ、最強だった」と言い残したと伝わる。

なお、宮本武蔵は島原の乱にも参加したが、スネに石が当って怪我をしたため、余り活躍できなかったと伝わる。

(注釈:宮本武蔵の伝承のあらすじとネタバレについては「黒田官兵衛(黒田如水)と宮本武蔵と関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

■関ヶ原の合戦の勝利報告
慶長5年(1600年)9月下旬、黒田如水(黒田官兵衛)が富来城を包囲しているとき、上方からの舟が来て、黒田如水(黒田官兵衛)に「関ヶ原の合戦にて敵は悉く敗走し、徳川家康が勝利を得ました」と報告した。

こうして、黒田如水(黒田官兵衛)は、長引くと思っていた天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」がわずか1日で決着したことを知ったのである。

すると、黒田如水(黒田官兵衛)は、黒田水軍の船奉行・松本吉右衛門に「兵船を多く浮かべ置き、敵の進注の早舟が来たら捕らえよ」と下知した(注釈:富来城の北側は海です)。

■黒田水軍と島津水軍の戦い
西軍の島津義弘は、関ヶ原の合戦で西軍が負けると、正面に居た敵・福島正則の軍勢を中央突破するという荒技で大阪へと逃げ帰った。いわゆる「島津の退き口」である。

大阪城に集結した西軍の残存勢力は、豊臣秀頼を擁立して東軍・徳川家康に徹底抗戦する事を主張したが、総大将の毛利輝元が同心しなかったため、島津義弘は船4艘で本国・熊本を目指した。

島津家の船4艘は、前の船のかがり火を目印にして進んでいたが、波風が次第に荒くなり、このうち3艘が先頭の船とはぐれ、慶長5年(1600年)9月26日の夜に筑前沖へと迷い込んだ。

島津義弘の家臣・伊集院左京は先頭の船を見失って難儀していると、かがり火を見つけたので近づいたが、それは富来城の海上を警備する黒田水軍のかがり火であった。

伊集院左京は慌てて引き返そうとしたが、島津水軍の船は大きかったため、直ぐには反転出来ず、黒田水軍に気づかれ、20艘ほどに追いつかれてしまった。

伊集院左京は島津義弘の内室を乗せていたので、どのような方法でも逃れようと思い、海戦の作法として、竿に笠を付けて掲げて降参の意思を示した。

しかし、黒田如水(黒田官兵衛)は伊予・能島(愛媛県)の海賊の残党を黒田水軍として多く召し抱えており、黒田水軍の船奉行・松本吉右衛門も海賊上がりだったため、水軍の作法を知らず、降伏の意思を示した伊集院左京の船に向かって鉄砲を撃った。

次ぎに伊集院左京は酒樽の蓋に「降参」と大書して海に流したが、黒田水軍からの発砲は止まらなかった。

(注釈:黒田如水は朝鮮出兵の前に、瀬戸内海で活躍した海賊・村上水軍の一派で、愛媛県を拠点とする能島・村上家の残党を多く召し抱えた。)

島津家の伊集院左京は仕方なく、1艘目の船と2艘目の女船を繋いで黒田水軍に応戦し、3艘目の船を逃がした。伊集院左京は畳を海水に浸して盾とし、船に乗り込んでこようとする黒田水軍を槍で拒んだ。

島津水軍は大船で、黒田水軍の船は小舟であったが、黒田水軍は「この敵を討ち漏らせば、能島の名が廃る」と言い、討ち死に覚悟で伊集院左京の船に乗り込み、命を惜しまずに戦った。

黒田水軍は苦戦したが、黒田水軍の小舟だったので、風上へと回り込み、散々に火を投げ込んだ。島津兵は必死に火を投げ返したり、火を消したりしたが、終いには船が燃え始めたため、島津家の大将・伊集院左京は船の中で切腹して自害した。

島津家の船2艘には200人程が乗っていたが、ほとんどは討ち死にしたか、溺れ死んだかで、生き残ったのは男13人・女8人だけであった。また、黒田水軍も約90人が死傷する被害を受けた。

島津水軍の3艘目の船は、伊集院左京の船が盾になっている間に逃げたが、伊集院左京の船が燃えると、黒田水軍の船奉行・松本吉右衛門は、逃げた島津水軍の船を追いかけた。

しかし、報告を受けた黒田如水(黒田官兵衛)が足軽30人を派遣して、船奉行・松本吉右衛門に停戦を命じたので、島津水軍の3艘目は難を逃れて島津領土に逃げ延びた。島津義弘の内室は3艘目に乗っており、無事に島津領土に逃延びたと伝わる。

黒田水軍の船奉行・松本吉右衛門は、生き残った8人を生け捕りにして、富来城へと戻って黒田如水(黒田官兵衛)に報告すると、黒田如水は「島津は徳川家康の敵であるが、女を乗せた船なので、降伏すれば、攻撃してはいけない。生け捕りにすれば、良き人質になる。これほどまでに男女を多く殺害し、味方も被害を受ける程の働きは無益である」と叱責した。

そして、黒田如水(黒田官兵衛)は生け捕りにした8人を厚くもてなし、中津川へ送った後、7人を島津家に送り届けた。残り1人は植杉作左という13歳の少年で、植杉作左は中津川に留まり、後に船頭となった。

■富来城が降伏
さて、黒田如水(黒田官兵衛)は黒田水軍の船奉行・本吉右衛門を叱責したが、勇戦した者には恩賞を与えた。そして、再び、松本吉右衛門に船20艘を任せ、富来城の海上を警備させた。

その後も黒田如水(黒田官兵衛)は「富来城を攻め落とすのは簡単だが、富来城を力攻めにすれば、味方の被害も多きため、策をもって降伏させよう」と考え、富来城の包囲を続けていた。

そのようななか、慶長5年(1600年)10月2日夜、富来城の海上を封鎖していた黒田水軍は、上方より降ってきた早舟を捕らえた。

早舟には富来城の城主・垣見一直(筧一直)の右筆・江良新右衛門が乗っており、右筆・江良新右衛門は富来城の城主・垣見一直が富来城の城代・筧利右衛門に宛てた手紙を持っていた。

城主・垣見一直(筧一直)の手紙には「私は亡き豊臣秀吉の恩義に報いるため、大垣城を守って討ち死にするつもりである。このうえは、富来城は意義を唱えず、敵方へ引き渡せ」と書いてあった。

手紙を読んだ黒田如水(黒田官兵衛)は、右筆・江良新右衛門を富来城へ入れ、「このうえは、早く開城するべし。開城すれば、城内の者は1人も殺さない。我に属そうと思う者は召し抱える。立ち去りたい者は立ち去って良い」と言い、開城を促した。

すると、黒田家の家臣・母里太兵衛(母里友信)が、黒田如水(黒田官兵衛)に「富来城の敵は1人も助ける必要は無い。昨夜、黒田政成の陣所に夜襲をかけ、味方を驚かせた憎い敵なので、即時に攻め入り、皆殺しにしましょう」と意見した。

これを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は「降参しなければ、攻め滅ぼすが、降参すれば、1人も殺さない。敵軍を残して勝つことこそ、良将である」と答えた。

かくして、右筆・江良新右衛門が富来城へ入ると、城代・筧利右衛門は城主・垣見一直(筧一直)の命に従い、意義を唱えること無く、富来城を開城して、黒田如水(黒田官兵衛)に降伏した。

黒田如水(黒田官兵衛)は降伏した者のなかから、藤井九左衛門・月成忠左衛門・櫛田九左衛門・疋田權内・瀧四左衛門・木全半兵衛・寺田博左衛門の7人を選んで召し抱え、豊前・小倉攻めの先手とした。

さて、黒田如水(黒田官兵衛)は富来城を包囲している間に、別部隊の栗山四郎右衛門(栗山善助)らが豊後にある臼杵城・角牟礼城・日隈城を開城させており、富来城の降伏により、豊後(大分県)は平定したのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「中川秀成と臼杵城の太田一吉の戦い-佐賀関の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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