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鍋島直茂と黒田如水(黒田官兵衛)-久留米城の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「鍋島直茂と黒田如水(黒田官兵衛)-久留米城の戦いのあらすじとネタバレ」です。


このページは「黒田如水(黒田官兵衛)の香春岳城の戦い-小倉城の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。


豊後と豊前を平定した黒田如水(黒田官兵衛)は、筑前へと兵を進めた。黒田如水(黒田官兵衛)が金庫を開いて兵を集め、豊前・中津城で挙兵したとき、手勢は9000であったが、降伏させた兵を吸収し、筑前へ入る時には1万3000に膨れあがっていた。

さて、筑前の大名・小早川秀秋は、黒田如水(黒田官兵衛)の薦めによって東軍に内通し、関ヶ原の合戦のとき、黒田長政の手引きによって東軍へと寝返ったので、筑前に黒田如水(黒田官兵衛)の敵は居なかった。

関ヶ原の合戦は終わったが、小早川秀秋は石田三成の居城・佐和山城攻めで先鋒を務めていたので、未だ筑前には戻っていなかった。

そこで、小早川秀秋の家臣・仙石角右衛門が、秋月まで行き、黒田如水(黒田官兵衛)を出迎え、仙石角右衛門の道案内で黒田如水は筑後へと侵攻したのである。

■鍋島直茂の久留米城攻め
豊後(大分県)を平定した黒田如水(黒田官兵衛)は、豊前(福岡県)を平定すると、筑前(福岡県)へを通過し、筑後へ入ると、久留米城(福岡県久留米市)を攻めるため、慶長5年(1600年)10月に藤山という場所に本陣を敷いた。

久留米城の城主・小早川秀包は毛利元就の九男で、小早川隆景の養子となって小早川を名乗っていた。小早川秀包は毛利家の一族なので、関ヶ原の合戦のとき、毛利輝元の要請に応じ、兵を率いて大阪へ上り、西軍に参加していた。

小早川秀包は兵を率いて大阪へ向かうとき、家老・桂広繁に「西軍が負ければ、九州に居る東軍は競って我が城に攻めてくるだろう。汝らは死力を尽くして奮闘し、刀折れて矢が尽き、この城を支えることが出来なくなれば、我が妻子を殺して、城を枕に討ち死にしてくれ。しかし、敵の大将が黒田如水(黒田官兵衛)であれば、戦う事なく、速やかに城門を開いて、妻子を託すべし。黒田如水は年来の交わりで、情の深い人なれば、決して我が妻子を殺すことはない。私の言葉を必ず黒田如水に伝えよ」と命じていた。

さて、久留米城に関ヶ原の合戦の結果が届くと、桂広繁は小早川秀包の命令を守って戦の準備を進め、籠城していると、佐賀城(佐嘉城=佐賀県佐賀市)の城主・鍋島直茂が手勢を率いて久留米城へと押し寄せてきた。

佐賀城の城主・鍋島直茂はかねてより徳川家康に誼を通じていたが、手勢を率いて上方に登っていた息子・鍋島勝茂が何故か西軍・石田三成に属して京都・伏見城を攻め、西軍の主力部隊として活躍していた。

これに驚いた鍋島直茂は使者を派遣して息子・鍋島勝茂に「徳川家康に刃を向けてはいけない」と注意したので、息子・鍋島勝茂は関ヶ原の合戦の前に西軍から東軍へと転身していた。

そこで、佐賀城の城主・鍋島直茂は徳川家康に息子・鍋島勝茂の行動を謝罪し、旗色を鮮明にして許しを請うため、兵を率いて西軍・小早川秀包の久留米城(福岡県久留米市)へ兵を進めたのである。

久留米城の家老・桂広繁は、鍋島直茂に包囲されると、小早川秀包の内室に「もし、敵が攻めてくれば、潔く4人の女子を刺し殺して自害しようと決めていますが、自決は家臣共が死力を尽くして戦い、城を支えられなくなった時の事です。それまで、軽々しく自害などはなさらないように」と注意した。

こうして、桂広繁は鍋島直茂に徹底抗戦し、僅かな手勢で久留米城を墨守して、数日間、堪え忍んでいると、東の方に「中白の旗」(黒田家の旗)が見えた。

桂広繁は「中白の旗」(黒田家の旗)を見て大いに安堵し、直ぐさま黒田如水(黒田官兵衛)に使者を送って、小早川秀包が言い残した言葉を伝え、久留米城の開城を願い出た。

すると、黒田如水(黒田官兵衛)は、久留米城を包囲する鍋島直茂に使者を送り、「久留米城は降ったので攻撃は止めたまえ。息子・鍋島勝茂が石田三成に与したので、鍋島家の行く末が心配だ。私は既に豊後・豊前を平定したので、この後、加藤清正と薩摩へ攻め入り、徳川家康に忠義を尽くすつもりである。貴殿も速やかに我らに先だって柳川城を攻めたまえ。柳川城攻めで戦功を上げれば、徳川家康に執りなそう」と告げた。

すると、鍋島直茂は大いに喜び、久留米城の包囲を解き、息子・鍋島勝茂と共に3万の軍勢を率いて、柳川城を攻めるため、慶長5年(1600年)10月15日に五反田に布陣したのである。

(注釈:加藤清正が久留米城を受け取ったという逸話は、後世の創作である。黒田官兵衛よりも加藤清正の方が人気が高かったため、黒田家の話が加藤清正の逸話として後世に残った。加藤清正の虎刈りも、元は黒田家の話である。詳しくは「実話・黒田長政と加藤清正の虎退治(虎狩り)」をご覧下さい。)

一方、久留米城を受け取った黒田如水(黒田官兵衛)は、小早川秀包の妻子を優遇し、博多を経て毛利の本国・広島城へと送り届けた。

後年、黒田如水(黒田官兵衛)は小早川秀包の娘を乞うて、弟・黒田惣右衛門(黒田直之)の養女とし、家老・吉田壱岐(吉田六郎太夫)の妻とした。

さて、黒田如水(黒田官兵衛)はこうして久留米城を受け取ると、弟・黒田惣右衛門(黒田直之)を城番として残し、筑後の大名・立花宗茂の居城・柳川城(福岡県柳川市本城町)へ向けて兵を進めたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「鍋島直茂と立花宗茂(立花左近)-江上・八院の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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