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呪われた黒田長政の過去!城井鎮房と黒田家の滅亡

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの番外編「呪われた黒田長政の過去!城井鎮房と黒田家の滅亡のあらすじとネタバレ」です。


このページは「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の遺言-最終回と結末のあらすじとネタバレ」からの続きです。

■呪われた黒田家の滅亡
黒田家は、黒田官兵衛(黒田如水)の時代に、播磨・姫路城の城主から、筑前52万石の雄藩に成り上がったが、その栄光は余り続かず、様々なトラブルに見舞われ、やがて黒田如水(黒田官兵衛)の血筋は絶えた。

黒田家は養子を繋いで黒田家を存続させてきたが、明治時代に入ると、黒田家は事実上の取潰し(改易)となった。

人々は、名門・黒田家が途絶えたのは城井鎮房の呪い・祟りが原因だと恐れた。実は、筑前・福岡藩の初代藩主・黒田長政には呪われた過去があったのである。

■城井鎮房の誅殺
天正15年(1587年)、九州征伐の後、黒田官兵衛(黒田如水)は豊前・中津(大分県中津市)を拝領し、豊前・中津に入国したが、豊前を支配していた豪族・城井鎮房が黒田官兵衛に従わず、反旗を翻した。(豊前国人一揆)。

城井谷城の城主・城井鎮房が立て籠った城井谷は、「3本の弓があれば、大軍でも防げる」という難所がある天然の要害で、城井鎮房は居城・城井谷城に立て籠り、新領主の黒田官兵衛(黒田如水)に抵抗したのである。

血気盛んな黒田長政は、黒田官兵衛(黒田如水)の留守に兵を率いて城井鎮房を攻めたが、城井谷に誘い込まれて大敗し、部下に四方を守られて、命からがら逃げ帰った。

一揆の知らせを受けて帰国した黒田官兵衛(黒田如水)は、「城井谷城は攻め難し」として、城井谷城を封鎖して兵糧攻めにし、その間に豊前国人一揆を平定していった。

天正16年(1588年)1月、ついに城井谷城に立て籠った城井鎮房が和睦を願い出たので、黒田官兵衛(黒田如水)は和睦を認めて城井鎮房を配下に治めて豊前国人一揆を平定した。

ところが、黒田官兵衛(黒田如水)が肥後へ出張に出かけていた天正17年(1589年)4月20日、城井鎮房が手勢200人を従えて、突如として中津へとやって来たのである。

(注釈:黒田官兵衛が城井鎮房を誘き出すために肥後へ行ったという説や、黒田長政が城井鎮房を執拗に招いたという説もあるが、詳細は分からない。)

すると、黒田長政は、城井鎮房の家臣を中津城下にある合元寺に待たせ、城井鎮房だけを中津城に入れ、宴席を開いて城井鎮房を騙し討ちにした。

その後、黒田長政は合元寺を攻めて城井鎮房の家臣を討ち取り、さらに、城井鎮房の居城をせめて、城井鎮房の一族を捕らえて磔にした。処刑される城井一族は、黒田家に呪いの言葉を残しながら死んでいったという。

合元寺では大勢の家臣が殺され、合元寺の壁は血で赤く染まったため、壁を白く塗り直したが、何度縫っても血の跡が浮かび上がってくるため、壁を赤くしたと伝わる(合元寺の心霊現象と赤壁伝説)。

また、中津城にも城井一族の怨霊・悪霊・幽霊などが出るようになったらしい。黒田長政は怨霊・悪霊・幽霊などに悩むみ、城井一族の祟りを恐れて、中津城の本丸に城井大明神を祭った。

その後、黒田長政は筑前に移っても、城井一族の祟りを恐れて、福岡城の二の丸に城井権現を祭った。

(注釈:城井鎮房の生涯については「城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■城井鎮房の呪いと祟り
黒田家は、黒田長政以降、代々と問題が起き、福岡藩黒田家はの6代目藩主・黒田継高のとき、天変地異に襲われ、人口の3分の1が餓死する事態に陥った。

さらに、6代目藩主・黒田継高は、子供に恵まれていたが、相次いで長男と三男を亡くして後継者問題に直面し、徳川家の一橋宗尹から養子・黒田治之を迎えて福岡藩の7代目藩主とした。

6代目藩主・黒田継高は孫娘と養子・黒田治之を結婚させ、黒田官兵衛の血をつなごうとしたが、孫娘は結婚する前に死んでしまったので、黒田官兵衛の血統は断然した。

6代目藩主・黒田継高より以降、筑前・福岡藩の藩主になった者は早死にするなどして、後継者問題に直面した。このため、福岡藩・黒田家は藩主の死を秘匿して養子を迎えるなどして、お家取潰しを回避し、養子で繋いで黒田家を保ってきた。

(注釈:6代目藩主・黒田継高より後は養子が続き、筑前・福岡藩は黒田官兵衛や黒田長政の血筋とは関係が無くなります。)

このため、福岡県に住んでいた当時の人々は、福岡藩・黒田家に続く不幸を「城井鎮房の呪い」「城井一族の祟り」と言って恐れた。

■福岡藩・黒田家の滅亡-偽札事件
筑前・福岡藩の11代目藩主・黒田長溥のとき、幕末を迎えた。11代目藩主・黒田長溥も養子なので、黒田官兵衛(黒田如水)や黒田長政の血筋とは関係無い。

11代目藩主・黒田長溥は非常に優秀だったが、佐幕派の開国論者だったため、対立する勤王派の福岡藩士で結成する「筑前勤王党」と粛正し、幕府に忠誠を示した。

しかし、時勢が倒幕派に傾くと、筑前・福岡藩は筑前勤王党を粛正して倒幕派との人脈を失っていたため、幕末の時流に乗れなかった。

結局、11代目藩主・黒田長溥は、佐幕派の家老3人を切腹させて倒幕派に転身し、筑前・福岡藩は新政府軍に恭順を示して、戊辰戦争は新政府軍として戦った。

さて、11代目藩主・黒田長溥も3男6女の子沢山であったが、子供は夭折して跡取りは出来ず、伊勢・津藩の藩主・藤堂高猷の三男・黒田長知を養子に迎えた。

そして、明治2年、養子の黒田長知が家督を引き継いで筑前・福岡藩の12代目藩主(最後の藩主)となり、版籍奉還によって福岡藩知事となった。

12代藩主・黒田長知のとき、既に筑前・福岡藩は財政破綻していたため、12代藩主・黒田長知は福岡城の野村屋敷で偽札・偽金作りを始めたが、新政府の取り調べにより、明治3年に福岡藩による偽金製造事件が発覚した。

その結果、新政府は筑前・福岡藩の者を大勢、処分した。また、新政府は、明治4年(1871年)7月2日に福岡藩知事の黒田長知も免官し、40日間の閉門と東京移住という処分を言い渡し、有栖川宮熾仁親王を後任の福岡藩知事となった。

(注釈:黒田長知の東京追放処分は、事実上の改易・お家お取潰しである。)

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県が施行され、福岡藩は福岡県になり、有栖川宮熾仁親王が福岡県知事に就任する。

こうして、黒田官兵衛・黒田長政の血統は途絶え、黒田家も偽金作りによって改易・断絶され、福岡藩・黒田家は消滅したのである。

このため、福岡県の人々は、「黒田長政が城井鎮房を騙し討ちにしたために城井鎮房に呪われ、黒田家は滅んだ」と噂し、城井鎮房の呪いや城井鎮房の祟りと恐れた。

城井一族の呪いは黒田家だけに収まらず、豊前・中津藩の4代目藩主・小笠原長円も城井一族の祟りによって病気になった。また、昭和元年の福岡県知事・大塚惟精も、悪霊を見るようになり、供養塔を建てて城井一族の怒りを静めた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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