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黒田長政と関ヶ原の戦い-小早川秀秋の裏切り

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と関ヶ原の戦い-小早川秀秋の裏切りのあらすじとネタバレ」です。


このページは「関ヶ原の戦いの開戦-井伊直政の抜け駆けと福島正則」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■関ヶ原の戦い-小早川秀秋への発砲
抜け駆けした東軍・井伊直政の発砲によって始まった関ヶ原の戦いは、初めは東軍が押していたが、西軍は要所に陣取り、柵を作って防ぎ戦ったので、次第に盛り返し、西軍が優勢になった。

慶長5年9月15日午前11時、西軍・石田三成は西軍の優勢を見て、狼煙を上げた。西軍は、狼煙を合図に東軍に総攻撃をかける手はずとなっていた。

しかし、松尾山城に布陣する小早川秀秋の西軍1万6000も、南宮山に布陣する毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親ら西軍2万7000も動かなかった。

一方、徳川家康も戦闘開始から3時間は経つが、いまだ西軍・小早川秀秋は寝返らないため、不安になっていた。

そこで、徳川家康は黒田長政に使者を派遣して「小早川秀秋の裏切りが遅い。内応の約束は東軍を欺くためではないか」と相談した。

黒田長政は、小早川秀秋と堅く約束を交わしていたので、違反は無いと信じており、弁才のある家臣・榊傅兵衛を徳川家康に派遣した。

そして、榊傅兵衛が徳川家康に、小早川秀秋の裏切りが遅れていることを理路整然と釈明すると、徳川家康は榊傅兵衛の釈明に感銘し、榊傅兵衛に羽織を与えた。

そこへ、黒装束の武将がやって来た。一説によると、黒装束の武将は、徳川家康の家人・久保島孫兵衛で、福島正則の使いで徳川家康の元に来たとされる。

黒装束の武将・久保島孫兵衛は、徳川家康に「小早川秀秋が裏切る手はずになっているとはいえ、旗色が敵とも味方とも言えず、心許ない」と報告した。

すると、徳川家康は黒装束の武将・久保島孫兵衛に「福島正則の鉄砲20挺を1組にして、松尾山に向かって2回、つるべ撃ちせよ」と命じた。

久保島孫兵衛は福島正則の陣営に戻ると、福島正則の鉄砲頭・堀田勘左衛門と共に、鉄砲隊20人を連れて松尾山に向かってつるべ撃ちにした。

しかし、松尾山に布陣する小早川秀秋は動かなかった。

(注釈:徳川家康が松尾山に布陣する小早川秀秋に向かって発砲したことにより、小早川秀秋が発砲に驚いて東軍へ寝返って松尾山を駆け下りたという説と、発砲しても小早川秀秋は動かなかったという説がある。そもそも、発砲は創作という説もある。)

■小早川秀秋の裏切り
そのころ、松尾山に布陣する小早川秀秋の陣営では、黒田長政の家臣・大久保猪之助が業を煮やしていた。

黒田長政の家臣・大久保猪之助は、小早川秀秋の寝返り密約の人質交換で、黒田長政の人質として小早川陣営に来たが、実質的には寝返りの監視役であった。

黒田家の家臣・大久保猪之助は、小早川秀秋がいつ裏切るのか、様子をうかがっていたが、戦が半ばにさしかかっても小早川秀秋が裏切らないため、ついに業を煮やして、小早川秀秋の家老・平岡頼勝に詰め寄った。

大久保猪之助は平岡頼勝の右側に立ち、「もう敵味方が乱入して戦っている最中に見えるが、裏切りの手はずは未だ見えないとは、黒田長政を欺くつもりか。播磨大菩薩もご覧になっておるぞ」と寝返りを迫った。

すると、平岡頼勝は大久保猪之助をじろりと見返し、「貴方が知る必要は無い。裏切りの時期は私に任せよ。今は時期が早いので、まだ待っているのだ」と答え、関ヶ原の戦いの成り行きを見守った。

小早川秀秋の兵は、名将・小早川隆景に鍛え抜かれているので、戦争の潮目を読む事に長けており、勝てる時が来るまで、むやみに戦わないのだという。

しばらくしていると、黒田長政が西軍の先陣・島左近の横合いから攻めかかり、黒田長政の家臣・白石正兵衛や菅六之助の鉄砲隊の射撃により、西軍の島左近が負傷すると、島左近の手勢が崩れ始めた。

これを見た平岡頼勝は、時節が来たりと思い、采配を振るって小早川秀秋の軍勢に攻撃を命じた。

しかし、小早川秀秋の先陣の大将・松野重元(松野主馬)は動かなかった。松野重元は元々は豊臣秀吉の家臣で、豊臣秀吉から豊臣姓を賜った豊臣恩顧の武将だったため、小早川秀秋の東軍寝返りに反対したのだ。

家老・平岡頼勝が説得に向かったが、松野重元(松野主馬)は「当家においてそのような弓矢は持ち合わせぬ。そのような命令は、盾裏の謀反というのだ」と言って寝返りに異を唱えて戦線を離脱してしまう。

さて、松野重元(松野主馬)が離脱すると、小早川秀秋の軍勢1万5000は、松尾山の山頂から鉄砲数100発を一斉に撃ち、一気に松尾山を駆け下りた。

このとき、小早川秀秋の前方には、西軍の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4将が布陣していた。西軍・脇坂安治ら4将は合わせて4000程度の少数部隊であった。

以前から小早川秀秋が東軍に寝返るという噂が東軍の間に流れており、西軍の大谷吉継は小早川秀秋の北側に布陣し、小早川秀秋を警戒しており、大谷吉継は小早川秀秋の押さえに脇坂安治ら4将を配置しいていた。

しかし、小早川秀秋が東軍へ寝返り、松尾山を下りると、西軍の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4将が東軍へ寝返り、小早川秀秋の軍勢と行動を共にした。

これは、小早川秀秋は事前に脇坂安治ら4将に使者を派遣して東軍への寝返りを説得していたとも、背後から下りてきた小早川秀秋に驚いて東軍へ寝返ったとも伝わる。

(注釈:4将のうち、脇坂安治は以前から藤堂高虎を通じて徳川家康に内通していたとされる。)

小早川秀秋は前方に布陣していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保を吸収すると、北西に布陣する大谷吉継の陣営を目指して突き進んだ。

これを見た、東軍の徳川家康は「我が軍の勝利ぞ。勝ちどきを上げよ」と言って喜んだと伝わる。

さて、東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢は、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4将を吸収して1万7000を超えており、地響きを立てて大西軍・谷吉継の陣営へと迫った。


西軍の大谷吉継は小早川秀秋の北西に布陣し、小早川秀秋の裏切りに警戒して要所に陣取っていたが、西軍・大谷吉継は、嫡男・大谷吉勝に精鋭3000を与えて先陣に行かせたので、大谷吉継の手勢はわずか600だった。

しかし、大谷吉継は少しも騒がず、陣営から逃げ出すようなことも無く、四方を指揮して、東軍・小早川秀秋の軍勢を防ぎ戦った。

そこへ、西軍・平塚為広と戸田勝成が援軍に駆けつけ、東軍・小早川秀秋の側面を攻撃する。

西軍・大谷吉継は平塚為広と戸田勝成の援軍を得て勢いづき、小早川秀秋の先手300人ほどを討ち取ったが、敵は次々と新手が現れるので、どうしようも無く、終いに西軍・平塚為広は東軍に討ち取られ、西軍・大谷吉継も敗走を余儀なくされた。

(注釈:大谷吉継はハンセン病が進行して失明し、盲目になっていたので、御輿に乗って兵を指揮したという説もある。)

■大谷吉継の切腹
兵士を残らず失い、戦場から逃れた大谷吉継は、側近の湯浅五助に「(私の顔はハンセン病で汚いので)私の顔を良く隠せ」と命じ、鎧を脱ぎ捨てて切腹した。

湯浅五助は大谷吉継を介錯すると、遺言を守って首を遠くに持ち去り、山中に埋めたが、そこを東軍の武将・藤堂高刑に見つかってしまい、湯浅五助と藤堂高刑は一騎打ちになる(注釈:藤堂高刑は、藤堂高虎の甥である)。

一騎打ちの最中に、湯浅五助が「武士の情けじゃ。主の首を埋めた場所は内緒にして欲しい」と懇願すると、藤堂高刑はそれを承知した。それを聞いた湯浅五助は安心して藤堂高刑に討たれて死んだ。

関ヶ原の戦いが終わると、徳川家康は首実検を行った。東軍・藤堂高刑が湯浅五助の首を差し出すと、徳川家康は「大谷吉継の首はどうした。お主は所在を知っているはずだろう」と尋ねた。

すると、藤堂高刑は「湯浅五助は槍の名手で私が討てるような相手ではありません。湯浅五助は私に討たれ、命を賭して主の首を守ったのでございます。私の主が同じように命じれば、私も湯浅五助と同じようにしたでしょう。したがって、大谷吉継の首の所在はあかせません」と答えた。

すると、徳川家康は藤堂高刑に感心して、自分の槍と刀を与え、大谷吉継の首については追求しなかった。

後日、藤堂高刑は大谷吉継の首を埋めた場所に宝篋印塔(ほうきょういんとう=石で出来た供養塔)を建て、その横に湯浅五助の墓を建て2人を弔った。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「吉川広家と関ヶ原の戦い-宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)のあらすじとネタバレ」へ続く。

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