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細川ガラシャの離婚騒動と細川忠興に改易の危機

NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」の「細川ガラシャ(明智珠)の離婚騒動のあらすじとネタバレ」です。


このページは「細川ガラシャが洗礼を受けるあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■細川ガラシャ(明智珠)の離婚騒動
九州を平定した豊臣秀吉が天正15年(1587年)6月に禁教令を発令したことを切っ掛けに、細川ガラシャ(明智珠)は夫・細川忠興に内緒で、天正15年(1587年)7月ごろに侍女頭・清原マリア(清原いと)から代理洗礼を受けた。

夫・細川忠興は戦場では勇敢な武将だったが、平時は残虐な武将であった。天正15年(1587年)、豊臣秀吉に忠実に仕えている夫・細川忠興は、九州征伐から帰国すると、キリシタンを激しく嫌い、キリシタンの弾圧を始めた。

夫・細川忠興の残虐性は以前よりも増しており、些細な落ち度でも躊躇することなく、キリシタンの侍女の耳や鼻をそぎ落としたり、首をはねたりした。また、夫・細川忠興はキリスト教に改宗した家臣を探し出そうとした。

さらに、細川ガラシャの入信を知った夫・細川忠興は、細川ガラシャに冷たく当たり、側室を5人持つと言い出したという(細川忠興の逸話)。

そして、夫・細川忠興は、絶世の美女といわれる侍女頭ルイザに側室になる事を強要した。

これに驚いた細川ガラシャ(明智珠)は、大阪に潜伏しているキリシタンの助けを借り、侍女頭ルイザを細川屋敷から逃がした。

細川ガラシャ(明智珠)は、キリシタンを迫害したり、側室を持とうとする夫・細川忠興に嫌気が差し、離婚して、宣教師パードレ・オルガンティーノらの居る長崎で暮らしたいと激しく希望した。

しかし、キリスト教は原則として離婚を認めていなかった。また、細川ガラシャ(明智珠)が離婚して長崎へ来ると、細川忠興を敵に回すことになり、キリスト教への弾圧が強まる恐れがあった。

このため、長崎に居た宣教師パードレ・オルガンティーノは、細川ガラシャ(明智珠)のために、大阪を訪れ、「苦難に立ち向かってこそ、信仰心が示せる」と説いて、細川ガラシャ(明智珠)に離婚を思いとどまらせた。

(注釈:細川ガラシャは大阪玉造の細川屋敷から出ることが出来ないので、宣教師パードレ・オルガンティーノに会う事は出来なかった。)

こうして、細川ガラシャ(明智珠)が洗礼を受け、離婚を思いとどまったのは、細川ガラシャ(明智珠)が25歳のことであった。

なお、細川ガラシャ(明智珠)は離婚騒動を起こした翌年の天正16年(1588年)に次女「細川たら」を出産する。

■夫・細川忠興の変化
細川忠興は豊臣秀吉に忠実に仕えており、九州征伐からの帰国後は、キリスト教を嫌い、キリシタンを迫害するようになった。

細川ガラシャ(明智珠)は離婚して宣教師の居る長崎で暮らすことを望んだが、キリストは離婚を禁じていたため、細川ガラシャ(明智珠)は離婚を断念して、耐えがたい幽閉生活を続けていた。

そのようななか、文禄3(1594年)、細川忠興の弟・細川興元が、細川忠興の次男・細川興秋を養子にもらった。

次男・細川興秋は幼少期に病気で死にそうになり、天正15年(1587年)に細川ガラシャ(明智珠)の判断で洗礼を受けている。(注釈:洗礼を受けたのは、次男・細川興秋ではなく、三男・細川忠利という説もある。)

次男・細川興秋を養子に貰った弟・細川興元は、高山右近や細川ガラシャ(明智珠)の影響を受け、翌年の文禄4年(1595年)に洗礼を受け、家臣にも洗礼を受けさせた。

やがて、弟・細川興元の改宗は父・細川幽斎(細川藤孝)の知るところとなったが、父・細川幽斎(細川藤孝)は「個人の問題」として細川興元の改宗を黙認した。

このため、細川忠興は弟・細川興元の讒訴を受け入れ、キリスト教への弾圧を止めるようになり、2人の女に洗礼を受けさせることを許した。

夫・細川忠興は豊臣秀吉の影響でキリスト教を嫌っていたが、細川ガラシャ(明智珠)からキリスト教の話を聞いているうちに考えも変わり、細川ガラシャ(明智珠)の改宗を黙認するようになった。

夫・細川忠興はバテレン追放令が出ていたため、改宗こそしなかったが、キリスト教にかなりの理解を示すようになったのである。

■細川忠興に改易の危機
天正19年(1591年)、天下を統一した豊臣秀吉は、実子が居なかったため、関白の座を養子・豊臣秀次に譲り、養子・豊臣秀次に日本の政治を任せて、唐入り(朝鮮出兵)を発動した。

しかし、文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の側室・茶々(淀君)が豊臣秀吉の実子・豊臣秀頼を出産すると、関白の座に着いた養子・豊臣秀次の状況が一変してしまう。

豊臣秀吉は既に養子・豊臣秀次に関白の座を譲っていたため、実子・豊臣秀頼を関白・豊臣秀次の娘と結婚させ、実子・豊臣秀頼を豊臣秀次の後継者にしようとした。

しかし、関白・豊臣秀次は謀反の疑いをかけられて比叡山に追放され、文禄4年(1595年)7月に自害するという結末に終わった(秀次事件)。

(注釈:秀次事件のあらすじとネタバレについては、実話・黒田官兵衛の「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

この秀次事件に連座して、多くの者が処刑されており、豊臣秀吉の家臣・前野景定(前野長重)は、豊臣秀次を弁護したことから、謀反の疑いをかけられ、切腹した。そして、豊臣秀吉は、前野景定(前野長重)の正室・細川長にも切腹を迫った。

さて、前野景定(前野長重)の正室・細川長は、細川忠興の長女であったため、細川忠興にも疑いが向けられた。

細川忠興は豊臣秀次から黄金100枚を受け取っていたことから、豊臣秀吉の側近・石田三成・前田玄以らが協議し、これを口実に細川忠興に切腹を言い渡すことを決議した。

この協議に参加していた前田玄以は、細川忠興と親しかったので、密かに人を使わし、細川忠興に切腹の危機を知らせた。

そこで、細川忠興は前田玄以を通じて豊臣秀吉に「拝領したのではない。借りていただけです」と釈明すると、豊臣秀吉は「明智光秀にも味方しなかったのだ。黄金100枚で細川忠興が謀反など起こさないだろう。しかし、娘・細川長を人質に差出し、黄金100枚を返還せよ」と命じた。

細川忠興は「娘・細川長は人質に差し出さないが、金は返す」と言い、お金の調達に奔走したが、全額が揃わずに困っていた。たが、最終的には徳川家康がお金を貸してくれたので、黄金100枚を返すことが出来た。

この一件で、細川忠興は石田三成を大いに憎み、徳川家康に感謝した。この一件が、細川忠興が関ヶ原の合戦で東軍・徳川家康に与する切っ掛けになったとも言われる。

一方、長女・細川長については、細川忠興は長女・細川長を出家させ、前野景定(前野長重)と離縁させた。

そして、細川忠興は「殺害の沙汰があれば、細川長と共に死ぬ」と言い、決死の覚悟で助命を嘆願した結果、長女・細川長は豊臣秀吉から許された。

実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレ」へ続く。

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