スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生涯を実話で紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」の「細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレ」です。


このページは「細川ガラシャの離婚騒動と細川忠興に改易の危機のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・細川ガラシャの生涯の目次は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

■細川ガラシャとバテレン追放令
日本にキリスト教を持ち込んだのは、ポルトガル系カトリック(イエズス会)のフランシスコ・ザビエルで、イエズス会がキリスト教の日本市場を独占していた。

しかし、その後、スペイン系カトリックのフランシスコ会が日本に進出してきたため、イエズス会による日本市場の独占は崩れた。そして、後発のフランシスコ会は、京都に滞在が許される程に躍進した。

イエズス会は貿易によって活動資金を賄い、フランシスコ会は托鉢によって活動資金を賄っていた。この活動資金の調達方法が互いに容認できず、イエズス会とフランシスコ会は対立していた。

そのようななか、天正15年(1587年)6月19日、九州を平定した豊臣秀吉は凱旋した筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)で、突如として「バテレン追放令」を発令したのである。

キリスト教(イエズス会)は南蛮貿易に大きく関係していたため、豊臣秀吉が発令したバテレン追放令は、それほど厳しくなく、宣教師の布教活動を禁じたが、キリスト教の信仰は自由であった。

豊臣秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を迫り、拒否した高山右近を改易したが、イエズス会の宣教師が表面的にはバテレン追放令に従ったので、キリスト教に対する弾圧することはなかった。

ところが、豊臣秀吉はサン=フェリペ号事件を切っ掛けに、キリシタン26人を処刑したのである。

■サン=フェリペ号事件
豊臣秀吉は文禄元年(1592年)に唐入り(文禄の役)を開始して、李氏朝鮮へと攻め込んだ。日本軍は連戦連勝で勝ち進み、李氏朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を占領したが、日本軍はあまりにも簡単に勝ち進めたため、補給が追いつかず、食料不足に陥った。

そこへ、明(中国)が属国・李氏朝鮮の救済に乗り出し、大軍を派遣したので、日本は力量不足から、文禄2年(1593年)に明・李氏朝鮮連合軍と和睦し、唐入り(文禄の役)は中断した。

そのようななか、文禄5年(1596年)7月、マニラを出向してメキシコを目指していたスペイン船「サン=フェリペ号」が台風の被害を受け、土佐沖(高知県沖)に流れ着き、浦戸湾で座礁した。

知らせを受けた豊臣秀吉は、増田長盛を土佐(高知県)へ派遣して、サン=フェリペ号の積荷を押収し、乗組員を拘束した。船長は激しく抗議したが、積荷が返還されたなかった。

そこで、怒った航海長は、増田長盛に世界地図を見せ、「我がスペイン国王の領土は、世界に渡って広大である」と言ってスペイン国王の威武を示して、増田長盛を脅した。

増田長盛は唐入り(朝鮮出兵)の時に石田三成らと共に朝鮮軍事奉行を務めた人物で、スペインが数々の国を植民地化していることに驚き、「どのようにして、これほど多くの国々を領土にしたのか」と尋ねた。

すると、航海長は「まず、宣教師を送り込んで説教させて信者を増やし、その後、軍隊を送り込んで、信者の助けを借りて国を征服する」と答えた(サン=フェリペ号事件)。

増田長盛から報告を受けた豊臣秀吉は激怒し、再びバテレン追放令を発令する。そして、豊臣秀吉は石田三成に、キリシタンの取り締まりを命じたのである。

■日本26聖人の殉教
先に日本で活動していたポルトガル系イエズス会の宣教師は、大阪や京都に潜伏していたものの、表面上は豊臣秀吉のバテレン追放令に従い、表だった布教活動は行っていなかった。

しかし、後から日本に進出してきたスペイン系フランシスコ会は、日本の事情を把握できていなかったのか、大阪や京都で布教活動を続けていた。

そのようななか、豊臣秀吉はスペイン船「サン=フェリペ号」が座礁した事件を切っ掛けに、再びバテレン追放令を通達し、石田三成にキリシタンの取り締まりを命じたのである。

豊臣秀吉の命令を受けた石田三成は、大阪と京都とで、計24人のキリシタンを逮捕した。逮捕されたのは、フランシスコ会7人と信者14人に、イエズス会3人であった。

石田三成は逮捕したイエズス会3人を助けようとしたが、豊臣秀吉は許さず、逮捕された24人は耳をそぎ落とされ、京都と大阪で市中引き回しとなった。

その後、逮捕されたキリシタン24人は徒歩で長崎へと移送された。その途中で、キリシタンの世話をした2人のキリシタンが捕らえられ、逮捕者は計26人となった。

長崎の役人はキリシタン26人の中に少年が居る事に哀れみ、最年少12歳のキリシタン・ルドビコ茨木に「棄教すれば命は助けてあげよう」と持ちかけたが、ルドビコ茨木は役人の申し出を断り、自分の意の命よりも信仰を選んだ。

こうして、キリシタン26人は、慶長元年(1596年)12月に長崎の西坂の丘(長崎県長崎市西坂町)で磔となって処刑された。キリストがゴルゴタの丘で処刑されたことから、キリシタンが丘での処刑を希望したという。

西坂の丘で処刑されたキリシタン26人は、聖人に認定され、この事件は「日本26聖人の殉教」と呼ばれるようになった。(注釈:殉教とは、信仰のために死ぬこと)。

■細川ガラシャと日本26聖人の殉教
日本26聖人の処刑を知った細川ガラシャ(明智珠)は、キリシタンの侍女とともに殉教するときの衣装を準備して、宣教師パードレ・オルガンティーノが処刑を受けるようなことがあれば、昼夜を問わずに駆けつけ、宣教師パードレ・オルガンティーノとともに教職する事を決意した。

(注釈:宣教師パードレ・オルガンティーノは、細川ガラシャに洗礼を与えることを決め、細川ガラシャの離婚を思いとどまらせた司祭です。)

「日本26聖人の殉教」が起きたのは慶長元年(1596年)12月、細川ガラシャ(明智珠)が34歳の事であった。

そして、細川ガラシャに大きな影響を与えた「日本26聖人の殉教」から5年後の慶長5年(1600年)に、細川ガラシャの運命を左右する関ヶ原の戦いが起きるのである。

実話・細川ガラシャ(明智珠)の生涯のあらすじとネタバレの「細川ガラシャと石田三成の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

コメント

スポンサーサイト細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレへのコメント

規定数に達したのでコメントの受付は停止しました。こちらは、コメント欄です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。